ERB評論集 Criticsisms for ERB


厚木淳「バローズの皮肉と諷刺」

創元推理文庫火星の女神イサス(厚木訳)』解説より

Sep.1979


 バローズが火星シリーズの第1巻に相当する原稿「火星のプリンセス、デジャー・ソリス」をオール・ストーリー・マガジンに売り込み、編集長のトマス・二ーウェル・メトカフから最初の好意的な返事をもらったのは1911年8月24日のことだった。メトカフはこの手紙の中で、作品が全体としてはすぐれていることを認めながらも、冗長な箇所をカットして、物語にもっとスピード感をあたえることをすすめた。この忠告に従ってバローズは原稿をリライトし、決定稿をふたたびメトカフ宛に送付した。同年11月4日、メトカフから、400ドルで雑誌掲載権を買う旨の、バローズにとっては終生忘れられぬ返事が到着した。いよいよ作家バローズの誕生である。このT・N・メトカフとERBの出合いは宿命的なもので、もし彼がメトカフと遭遇していなかったならば、あるいは作家志望を断念して別の職業に移っていったかもしれないのである。(もしそうなっていたら、現代の読者は70冊におよぶ彼の全作品を失っていたことになるわけだ)。その原稿は「火星の月の下で」と改題されて、1912年2月から7月にかけて、オール・ストーリー・マガジンに連載されたが、連載完結の7月に、早くもバローズは本書「火星の女神イサス」の執筆を開始している。これはむろん「火星の月の下で」の好評と、編集長メトカフの要請によるものであり、ここに初めてバローズは、売れる当てのない原稿を書き続けるという経済的不安から解放されたのである。
 本書のテーマは、形の上では失われた恋人デジャー・ソリスの探索であるが、実はそれよりも、火星という一つの惑星全体を太古の昔から精神的に支配してきた邪宗、女神イサスを頂点とする強大なホーリー・サーンの一大宗教組織を、ジョン・カーターが打倒するのが全編の主題であり、デジャー・ソリスの救出は第3巻へと持ち越されてしまうのだ。第1巻に引き続き、本編でもバルスームの風俗・習慣・宗教・文化・歴史・動植物から社会生態学に至るまでの基礎知識がつぎつぎに語られて読者を楽しませてくれるが、イサスの宗教組織のほかに特に興味深いのは、オメアン海という地底世界の設定と、124頁に始まる生命の木の物語であろう。後年のペルシダー・シリーズは全編が地球の地底世界を舞台にした作品であり、「月のプリンセス」も月の地底世界を舞台にしているが、彼の地底世界好みが、最初期の本書に早くも表われているのは興味深い。
 作者が現在のバルスームの支配種族を赤色人にしたのは、たぶん火星の別名、赤い星からの連想であろうが、生命の木の話は、黒色人こそが火星上のファースト・ボーン(最初に生まれた種族)であり、この黒色人と現在では絶減したと見られる(実は辺境に存在しているのだが)白色人、黄色人の三者の混血によって誕生したのが赤色人だとされている。黒色人に対するバローズの評価は、白人であるホーリー・サーンのそれよりもはるかに高い。
「身長は二メートル近い大男たちで、顔立ちは彫りが深く、すばらしく美しい」(103頁)「ファースト・ボーンは働かない。男たちは戦う。それが神聖な権利であり、また義務なのだ。女たちは、なにもしない。絶対に、なにもしないのだ。奴隷たち(白人)が彼らのからだを洗ってくれるし、着物を着せ、ご馳走をつくって食べさせてくれる」(185頁)「われわれは生産に従事しない種族で、しかもそのことを誇りにしている。働いたり、発明したりすることは下等動物がやる仕事で、下等な連中はファースト・ボーンがいつまでもぜいたくに、のらくら楽しく生きられるためにのみ、生存しているのだ」(213頁)
 黒人と白人の社会意識と地位の完全な顛倒であり、執筆当時、つまり今世紀初頭のアメリカ社会の現実を考え合わせれば、作者バローズの皮肉と諷刺はまことに痛烈である。そしてこの諷刺は半世紀を経過した今日でも、アメリカでは生彩を失ってはいないだろうと思う。本書がオール・ストーリー・マガジンに連載されたのは1913年1月から5月へかけてであり、単行本は1918年、マクラーグ社から刊行された。次回の第3巻「火星の大元師カーター」でシリーズ冒頭の三部作が一応、完結し、第4巻「火星の幻兵団」では、少年少女(といっても、地球のハイ・ティーンくらいだろう)として本編に登場したカーソリスとスビアが、ヒーローおよびヒロインとして大活躍することになる。

注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。


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