ERB評論集 Criticsisms for ERB


岡田英明「バロウズからムアコックへ」

ハヤカワ文庫SFマイクル・ムアコック作『野獣の都』解説

Jun.1972


 今、ぼくはとってもうれしい気持と、ちょっと不安だなあという気持と、ごちゃごちゃに入り混っていて何か不安定な感じなのです。
 R・E・ハワード以来、久しぶりにぽくが狂っているムアコックの作品が、矢野徹氏という大先輩の手でついに翻訳されて、しかもぼくが解説を書げるというのがとってもうれしい気持、でもこの作品イコール・ムアコックと思われちゃうとこまるなあっていうのがちょっと不安な気持なんです。
 どうしてかっていうと、その辺がいろいろあるんで、この作品、たしかにムーアコックの作品なんだけど、どうも一筋縄ではいかないんですよ。どんな作家の作品でもそうだろうけど、この作品はことに、ムアコックという作家の全作品の中に位置付けて読んでもらいたいんです。そうしないと、誤解されちゃうんじゃないかと思うんです。この解説では、そのあたりのことを、ちょっと書いておきたいんです。で、まず、バロウズのことからはじめてみます。

 E・R・バロウズが1912年に、ジョン・カーターというありふれた名前のアメリカ人を創造したとき、すべてがはじまった。そしてすべてが終わったのだ。「火星シリーズ」が誕生して以来、この種の小説は、六十年をへだてた今日に至るまで、多くの作家たちの手によって絶えることなく書き継がれてきた。
 オーティス・アルバート・クラインは、バロウズの向こうを張って、「火星」「金星」を舞台にしたシリーズをものし、ラルフ・ミルン・ファリーは「金星」を舞台にした「ラジオマン」シリーズ、L・スブレイグ・ディ・キャンブは「クリシュナ」を舞台にした「ゼイ」シリーズを発表している。R・E・ハワードも、リン・カーターも、アンドレ・ノートンも、この種の小説に手を染めてきた。これ以外にも、本当に沢山の作家たちが、この種の小説を書いている。たとえば、工ースのダブルブックを数冊もってきてごらん。その中の一冊は、かならずこの種の小説がはいっている。
 そして今、あなたが手にしているこの本も、バローズの流れを汲むこの種の小説の一つの典型的な作品だ。といっても、決して馬鹿にしたり、軽蔑しているわげではない。それどころか、特異な性質をもっている小説群だと思っているんだ。
 この小説群は、いわゆる力テゴリーに分げられる類の小説ではない。たとえば、サイエンス・フィクションの中に含まれるかもしれないが、決してサイエンス・フィクションそのものじゃない。ファンタジーと呼ばれるものでもないし、ましてスペース・オペラなんてものでもない。ヒロイック・ファンタジーととっても近いものだけれど、同じものではない。
 もはやバロウズタイブとしかいいようのない奇妙な小説群だ。
 なぜ奇妙かといえぱ、ほんの一例にしかすぎないげれど、これほど時代の流れというものから影響を受けていない小説群はないんじゃないだろうか。そしてこれほど作者という存在が無個性になってしまう小説類型は、他にないんじゃないだろうか。いってみれば、バロウズという一人の作家の中から永遠に脱け出すことのできない小説群だ。だがらこそ、バロウズの作品がもっている二十世紀初頭のアメリ力という特殊なバックグラウンドが、そのまま後の作家の作品にも、重い十字架となってのしかかっているんだと思う。そういった意昧で、バロウズとアメリカって国は偉大だなあと思う。
 このことは、バロウズ以降のバロウズタイブの作家たちの作品を読んでみればわかる。
 バロウズタイプには二種類ある。一つはバロウズのイミテーション。そしてもう一つはバロウズから脱け出そうという試み、後者の数は前者ほど多くないにしろ、何人もの作家たちの手によって試みられている。そして、それはイミテーシヨンの試みと同じように、あまり成功しているとはいえない。

 たとえぱリン・カーターの「レムリアのソンガー」シリーズを見てみよう。その第1作、 "Wizard of Lemuria" はバロウズタイブから一歩踏み出し、ヒロイック・ファンタジーの中に踏み込んだ地点で書かれている。いわば、バロウズの作品の中にハワードの主人公をぶちこんだのだ。この試みは、第一作にかぎっていえば、成功したと思う。ところが第二作以後は、バロウズの影響が強く出ていて、ハワードの影はほとんど薄れてしまっている。たしかに面白いし、よく書けているんだげど、やっぱりバロウズなんだなあと思わされてしまう。
 もしかすると、バルスームみたいな一つの架空世界を創り出し、その社会、言語、文化風俗を描くってことは、バロウズタイプの作家にとって耐えがたいほどの魅カなのかもしれない。そしてそうすることによって、画一的なイメージのバロウズ世界ができあがってしまって、にっちもさっちもいかなくなってしまうのかもしれない。

 1966年にバランタイン・ブックスが新しいバロウズタイブのシリーズを世に送り出した。新人ジョン・ノーマンの「タール・キャボット」を主人公に、カウンター・アース「ゴア」に展開されるシリーズがそれだ。バランタインのこのシリーズに対する自信は大変なものらしい。たとえば第1作の"Tarnsman of Gor"には、こんなことまで書いている。「……いつの日にかジョン・ノーマンという名が一流作家の中に含まれるであろう。われわれはこう予言しておく。この作品はほんのはじまりだ。見逃がしてはならない」
 この第1作以来、年に一作、それも12月と月まで決めて、このシリーズは着実に出版されている。
 第1作から第3作の "Priest-king of Gor" に至るまでの3作は、本当によくできていて、次の作品が出るのが待ちどおしかったほどだ。
 ジョン・カーターをはじめとするバロウズの主人公たちは、結局のところアウトロウなのに、なぜか、王様になってしまう。いってみればアメリカに存在しえなかった封建社会の頂点に立ってしまって、そこで正義の味方なのだといっているようなものなのだ。侵略者、征服者であったにすぎないのだ。だからまず、場所を変え、時代を変えていかなければならなかった。
 ところがジョン・ノーマンは、時代を現状のままにし、年に一回発表することによって、時間の流れも同じようにしている。場所こそ太陽の反対側にあるカウンター・アースというものを仮定しているが、そこには現実の地球との関係がより密接なものとして存在している。そして、主人公の「タール・キャボット」の性格付けが、これまでのバロウズタイプの作家とちがっているのだ。
 「タール・キャボット」はアウトロウのままでいる。異邦人として「ゴア」の世界に関わっていくのだ。「ゴア」シリーズの構成は、この異邦人が、謎を解き明かしていく過程から成り立っている。そして解き明かしたことによって、何の変化も「ゴア」の社会に及ぼしえないことを「タール・キャボット」は充分認識している。だから、たとえ「ゴア」を支配している者を倒したところで、「ゴア」の社会を変革することができない。「タール・キャボット」は破壊しつづけながら、「ゴア」の体制を維持していく側にまわっていく、それも指揮者、指導者としてではなく、一人の部外者のままで。
 ぼくは「ゴア」シリーズが、ついにバロウズを抜いて、新しい世界を切り開こうとしているとまで思った。ところが、第4作、第5作といくにつれて、だんだんおかしくなってきたんだ。ジョン・ノーマンという作家の限界なのかもしれないが、生気がなくなってきて、同じパターンの繰り返しになってきてしまったのだ、「タール・キャボット」の破壊的な性格の意味が薄れてきて、バロウズタイプの主人公に近くなってしまったのだ。
 このままつづけば、バロウズの「火星シリーズ」を量でしのぐことになるがもしれない。でも最初のあの緊張感を維持していくことを考えれば、第4作ぐらいで完結しておくべきだったんじゃないだろうか。そうすれば大傑作になっていたのに。

 バロウズタイブの作品に対する一般的な評価として、「決まりきってる」とか「古くさい」「甘い」「馬鹿ばかしい」とかいう非難があって、だから「つまらない」ということに結びついているようだ。でも、それはそのままバロウズタイブの作品の長所だし、それだからこそ、いまだに書かれ、生命を保っているのだ。これから脱け出そうという試みは、前にもいったように、あまり成功していないし、それも考えてみれば当然なんだと思う。

 で、またもとの調子に戻っちゃうんだげど、一番最初にいったとおり、ムアコックの初翻訳作品がこのシリーズだということは、どう考えても不安なんだ。
 もう皆さん、ご存知のこととは思うけど、このシリーズ、最初はムアコック名義じゃなかった。「エドワード・P・ブラッドベリィ」という名前で出されていたんですよ。
 イントロダクションのところで、最後にエドワード・P・ブラッドベリイなんてはいっているけれど、これはその名残りなんです。1966年にランサーから、"Warriors of Mars" "Blades of Mars" "Barbarians of Mars"なんて題名で出版されたときには、この「E・P・ブラッドベリイ」という人の紹介まで載っていたんだから、ふざけてるといえば、ふざげてる。
 ブラッドベリイ・イコール・ムアコックということがわかったのは、つい2年ほど前のことだけど、それまでどうしてわからなかったかといえば、一つには作風がまったくちがうこと、もう一つはこの経歴紹介というやつのためだったんです。コピーライトのところを見れば、ムアコックの他の作品と同じ、ロバーツ&ヴィンターLtd. なんて、よくよく考えれぱわかったかもしれないけど、まあ無理だよね。
 「ブラッドベリイ」とムァコックの「経歴」がどれほどちがうか、ちょっと見てください。
 「エドワード・ポウイス・ブラッドベリイは、1934年に生まれ、しばらく極東で過ごしていた。そのため古代サンスクリット文学に深い興味を抱くようになった。1955年に英国に戻ってきたが、そこで、ブラッドベリィ自身の言葉を借りれば『二人の老いた親類の者の遺産が、わたしにもう生活のために働く必要がないのだというショッキングな認識を与えてくれた』という幸運に恵まれた。そこでブラッドベリイは、今度はヨーロッパ、アフリカ、アメリカという国々を歴訪し、そのかたわら、小説を書きはじめるようになった。すでに数多くの著作、探偵小説、ウェスタン、恐怖スリラー、また同じくらいの量のノンフィクションを著わしている。事実、ブラッドベリィは書くことをやめられない男だ。そしてもし死ぬときには、かならずペンを握ったまま死んでいるところを発見されるにちがいないとみずから確信している。かれのただ一つの望みは、この作品がうまいこと終わってくれることだけだ!」
 おそらくムアコック自身が書いたのだと思うけど、よくいうよ。だってムアコック自身の経歴はこうなんだ。
 「マイクル・ムアコック1939年、ロンドン生まれ。10歳のときから "Outlaws Own" という小雑誌の編集にたずさわり、以後十代を通じて "Book Collectors News" "Burroughstana" "Rambler" の編集をし、17歳のとき、それまで定期的に寄稿していた "Tarzan Adventure" という少年雑誌の編集者になった。そして18歳になると "Sextom Blake Library" (18世紀からつづいている探倶小説のシリーズ。新しいものはぺーパーバックで、現在でも手にはいる)に参加した。
 その後、英国を離れて、主に北欧を中心にブルース・シンガー兼ギタリストとしてヨーロッパ大陸を放浪。そして、今はニューワールズなどに作品を発表しているヒラリー・ベイリーと知り合った。この辺のことはムアコック自身がいっているけれど、ちょっと格好がいい。
 『スウェーデンを発つときのパーティでちょっと見かけた女の子をハントするために、もう一度スウェーデンに舞い戻ったんだ。そして彼女――ヒラリー・ベイリー――を見つけ出し、緒婚したのさ』
 それが1962年の9月。今では、ソフィとケィティという二人の娘がいる。
 英国へ戻ってからのムアコックの活動は目ざましい。ぼくたちがムアコックの活動を知ることのできるのは、このあたりのことからだ。
 1962年には "Liberal Party Information Department" に編集者兼ライターとしてはいり、1963年にはフリーとなった。本格的に作家として活動しはじめたのもこの頃だ。“エルリック”シリーズの第1作 "Dreaming City" 『夢見る都』は1961年に発表され、1965年頃までに一つのピークを作っている。
 1964年になると、当時は保守的なSF雑誌だった "New Worlds" の編集長になって、例のニューウェーブの強力な推進者となった。1965年になると、ヒロイック・ファンタジーだげじゃなくて一般のSFにも著作がぐっと増えて、そのほとんどがこのあたりで書かれている。1967年には "New Worlds" が英国のアーツ・カウンシルから賞を受けている。この年ムアコック自身も、英国サイエンス・フィクション協会から、ブリティッシュ・ファンタジー賞を受けている。
 そして1968年、中編 "Behold the Man" 『その男を見よ』がネビュラ賞を取った」
 といったわけなんだけど、「ブラッドペリイ」とは大変なちがいじゃないか。
 とにかくムアコックという人は、何から何までやってやろうという人間であることはたしかだ。かれの作品をとってみても、アバンギャルド風がら、このブラッドベリイ名義のバロウズタイプまで、多種多様だ。どうしてそんなことになるのかというと、ムアコック自身のいい草がいい。
 「どうしてほとんどあらゆる種類の作品を書くかといえば、ただ単に、ほとんどあらゆる種類の作品が、おれ自身、面白くてしようがないという理由からだけさ」
 それならそれでなるほどということになってしまうけど、そんな単純なものじゃないと思う。ムアコックがヒロイック・ファンタジーを書きはじめるようになった直接の原因はE・J・カーネル(元 "New Worlds" の編集者)に1960年、「ヒロイック・ファンタジー」を書いてみないかとすすめられたからなんだそうだ。「エルリック」はその産物ということになる。でも "The Eternal Champion" 「氷遠の闘士」の原型というのは1956年に "Avilion" というのに発表された短編らしいから、もっと前から、ヒロイック・ファンタジーについては何か考えていたんだと思う。
 そこでこの「新・火星シリーズ」のことになるんだけど、これは1965年の作品、丁度、「エルリック」のシリーズが絶頂にあったころだ。これがわかんないんだなあ。ムアコックはその経歴を見てもわかるとおり、バロウズの作品とはよく接していたらしいから、初期の段階の習作的な感じで、このシリーズを書いたのならよくわかる。バロウズタイブとしては、とってもよくできているから。もうバロウズそのものに近いといってもいいほどだ。
 でも、でもですよ、ムアコックという作家の作品として見るとこれだけではものたりないんですね。そういった点から考えると、「ブラッドベリイ」名義を使わざるをえなかった理由はよくわかるような気がする。思うにムアコックは自已顕示欲の強いタイプの人間だし、プロとして超一流の腕を持っているから、どんなものでもおれは書けるんだってなことを見せたかったんじゃないかなあ。それでできあがったものが完全なバロウズタイプの「新・火星シリーズ」。でもあんまりうまくいきすぎて、ムアコックらしくなくなった。
 ムアコックは、本当の意味でのオリジナリティというのがなくて、これまである作品にちょっとひねりを加えて、あっと驚くような作品を作るのがうまい人なんだ。ヒロイック・ファンタジーに新しいものを持ちこんできたのもかれだし、ネビュラ賞をとった "Behold the Man" にしても、キリストとタイムトラベルというありふれたテーマにちょっとひねりを加えたものだ。
 ところが「新・火星シリーズ」には、その辺のさえが見られない。前にも書いておいたけど、バロウズタイブの作品というのは、ほとんど変革の余地がない。それを変革するということは、バロウズタイプじゃなくなることに近い。とすれば、さすがのムアコックも手の出しようがなくなってしまった。そこで出てきたのが「ブラッドベリィ」の経歴だ。もちろん作家というのは成長するものだし、当時のムアコックと現在のムアコックがちがっていることは考えられる。でもその本質は、決して変わりようがない。ここに1966年に書かれた "The Twilight Man" のイントロダクションがある。これに書かれていることは、現在のムアコックの姿勢とほとんど変わっていない。
 「……わたしの見るところからすれば、人間の存在には、明らかに見てとれるすでに決定した法則に従っているパターンがある。それは決して終わることのない儀式、何千年にもわたって人類によってやられてきたゲームなのだ。それは一つの存在としての人類の生存にかかわっている。ことは、ムアコックが、「ブラッドベリイ」も「ケイン」も、両方とも作中人物として考えていることを現出しているということだ。
 ちょっと無理しているという感じもある。でも、こうしてみれば、ムアコックはバロウズをとっても意織していて、バロウズが無意識にやっていたことを、この「新・火星シリーズ」で意図的にやっていることがわかるだろう。「火星シリーズ」や「金星シリーズ」を読んでいるかぎり、そこに出てくるバロウズって人の「経歴」が、現実のバロウズとはちがっていて、いってみれば、まったく別人の経歴ということになる。もちろんバロウズの場合は、創作上、しかたなくそうなってしまったんだけど、ムアコックはそいつを意図的にやって、一つのストーリイの中に、もう一つストーリイをぶちこむことに近いことをやったんだと思う。考えすぎかな?
 でも、ムアコックがなぜそんなことをしたのが、ぼくにはわかる。かれの他の作品を読んでいけば、納得がいくんだ。もうかなり長くなっちゃったんで、それについてはまたの機会にしますげど、絶対自信があるんだ。

 てなわけで、この作品をたんなるバロウズタイプとして読んでもらいたくないんだ。そうやって読んでも、面白いことにはまちがいないよ。でも、この作品の背景を考えて読んでもらえれば、もっと面白くなる。だって、永遠の時の流れの中を一つのキャラクターが転々として存在していて、それがあるときは未来に、そしてあるときは太古に、宇宙のバランスが崩れようとしているときに出現して、それが均衡を保つのを助けるなんて、ちょっとすごいじゃないか。
 バロウズタイプという形をとってしまったために、その意昧でのキャラクターが弱まっているけれど、でもその背景には、この意識が歴然としてあるんだ。これを忘れないでほしい。
 ムアコックのこのシリーズは三冊とも訳されるし、他のシリーズも訳されていくはずだ。一つ読めば、それだけムアコックの世界が拡大していくのがわかる。ぼくたちの楽しみもそれにつれて広がっていく。ムアコックが書ぎつづけていくかぎりね。先は長い。でも最初がかんじんさ。
 きみはどこまでムアコックの世界につきあっていく自信がある? ぼくはとことんまでっきあってやるつもりなんだ。それだけのことはあると思うよ。おたがいがんばらなくっちゃね。


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