ERB評論集 Criticsisms for ERB


鏡明

ボクはなぜとても強い人〈ヒーロー〉の活躍する〈ハシャギマワル〉物語に魅かれるんだろう。
SFもそういう話は大好きだなあ。――
バローズと「フェニキア人のフラ」

SF専門誌「奇想天外」1977年12月号連載エッセイ

Dec.1977


 どうも、どうも、ずいぶんのごぶさたでした。本当なら、アメリカでスター・ウォーズでも見て帰ってぐる予定だったのに、何とスープですじゃない、出発寸前に突如発熱、ダウンというここ数年にない奇跡的なアクシデントのために、こうしてみじめに原稿を書いておるのです。
 新しい資料なども、どっちゃり仕入れてくるぞぉと、夢と希望に満ちあふれていたのにね、ぼくの人生はどうなるのでしょうか。人間、年をとると本当に駄目になるものですね。
 さてと、今回は前回の続きです。当り前だな。これはまがりなりにも連載であったのです。でも、間を置くと、何とも不安になるものでね、文章まで変ってしまう。バローズの火星シリーズには、エドウィン・L・アーノルドという人の「火星のガリバー」の影響があるのではないか、はたまた「フェニキア人のフラ」という、アーノルドの作品の主人公、フラが、ジョン・カーターその人のモデルなのではないか、などというところまできていた筈ですね。
 1963年に「火星のガリバー」のリプリント版発行に成功したリチャード・A・ルポフの言葉を借りれば、「もしもバルスームがアーノルドの作品の一つから生まれたとしたら、カーターもまたアーノルドの作品の一つがら生まれたのではあるまいか? アーノルドの最も良く知られた作品『フェニキア人のフラ』から?」というわけです。
 これに続けて、ルポフは「フエニキア人のフラ」はまさにジョン・カーターなのだ! とまで言ってしまうのですが、それは本当なんでしょうかね。
 「フェニキア人のフラ」は1890年にアメリカで出版されています。当然、それ以前にイギリス版が出ている筈なんですが、それがいつだったのか、調ぺがつきませんでした。それはそれとして、ルポフがこの作品のことを、アーノルドの作品の中で最も良く知られたもの、なんて言ってくれたおかげで、そいつをすっかりまにうけたぽくぼ、すぐ手に入る作品だと考えていたのですが、どうしてどうして、見つかるわけがない。それも当然なので、もしもそんなに容易に手に入る作品なのであれば、ルポフ以前に誰かが「フラ」と「カーター」の相似を指摘していてもいいのに、そんなのきいたこともなかったものね。結局のととろが、アーノルドという作家がいかに忘れ去られた存在であったがということを思い知らされただけだったのです。
 ところが、あるととろにはあるものですね、御存知、伊藤典夫という人が「フェニキア人のフラ」を持っていたのです。う−ん、腹がたつ。それがことでお見せする「Famous Fantastic Mysteries」という30年代の終りから50年代のはじめにかけて発行されていたリプリント専門誌の1945年9月号に一挙収録されたものだったのです。
 そして何とスープですじゃない、くどいね、これが、「フェニキア人のフラ」の唯一のリプリント版なのですね。ことでこう書けるというのも、伊藤さんのおかげ、感謝するのであります。そろそろまじめにはじめましょうかね。

 「私の若い頃の放浪の細かなことは、ぽんやりとしかおぽえていないことを白状しなければならぬ」
 アーノルドのフェニキア人、フラの物語は、こう書き出されている。そしてたとえば、とんな文章が続く。
 「私の人生の最初の30年は、普通の人間のそれと同じようにつまらないことで満足していた」
 こうした独白調の語り口と、たとえば、
 「わたしはずいぶん年齢をとっている。何歳なのか自分でもわからない。おそらく100歳かもしれないし、もっと老齢かもしれない。しかし年齢がわからないというのは、わたしが他人のように老けなかったせいもあるが、また幼少時代の記憶がまったくないせいでもある。記憶するかぎりでは、わたしはずっと一人前の男、それも30歳くらいの男なのだ」といった文章を比べてもらおうか。
 たぶん、後の長い引用は、前の短かな二つの引用を、別の言い方で言い変えただけのように見えないだろうか。そして後者は、バローズの「火星のプリンセス」の書き出しの部分なのだ。
 実に奇妙に思えるのだが、ジョン・カーターのこの独白と、それが示すことは、これまでほとんど無視されてきたのではなかったろうか。つまり彼が、何百年、いや何千年も生きてきた可能性がある存在なのだということは、このとおり、そのエピソードが語られる前に示されているし、ジョン・カーターに関するかぎり、いつもそれは語られているのだ。
 ぼく自身にしても、実をいうと、この点については、若千、混同していたきらいがある。つまり、火星で何十年、何百年過ごしても年をとらないのであって、その間、ジョン・カーターは若いままでいると思い込んでいたのだ。つまり浦島太郎というわけで、そのイメージとこの文章をごったにしていたのだ。だが、本当は元々が、ジョン・カーターは長命の人間で(それが何故かわからぬが)、そのためにすべての人間が長生きする火星にあっても、年をとるととなく暮ちしていけるということになっていたのだ。
 それが単なる思いつきで書かれたのではなく、ジョン・カーターにかぎって、重要なファクターであったのは、たとえばバローズ自身が、彼と同じ血をひいており、なかなか年をとらないという形で、後の巻でも言及されている。そしてまた、それはあくまでもジョン・カーターの場合のみに限られているめは、注目すべきだろう。
 第6巻に登場するアメリカ人、ユリシーズ・パクストンの場合には、すでに死んだ人間の魂がバルスームに出現するという形をとって、この長命の間題を解決しているのだ。もっとも、とのユリシーズ・パクストンの存在は、火星シリーズそのもののあり方に、大をな間題を提出することになる。それでなくとも、バルスームが死後の世界(ユリシーズ・パクストンにとっては、まさにそうなのだ)であるとすれぱ、なぜジョン・カーターは長命の人間でなければならないのか。
 この時間の間題については、バローズはペルシダーなどで、主観の間題に過ぎないのだという解釈を持ち出している。それならば、ますますジョン・カーターが長生きしなければならないという理由もなくなってしまうというものだろう。
 この程度の根拠で、軽々しく結諭を出すのは、避けねばならないことだが、このジョン・カーターの異常な身体というアイディアは、バローズの心に根ざしたものではなく、借り物であったのかもしれないという疑間が出てくるのは、当然といえるかもしれない。もしも長生きをするというととが、彼にとってのメイン・モチーフ(処女作でそれを使いたくなるほどの)であるならば、彼の他の作品の中に、もっと出てきても良さそうに思うからだ。
 少なくとも、バローズの造り出したヒーローたちを追っていくとき、そこには熱烈な正義感、騎士道精神、健全なモラル、肉体的な強さ(剣の技も含めて)といった共通点を見出すことはできるが、もちろんそれらのことは初期のアメリカン・ヒーローの一つのタイプであるのだか、長生きをするという属性は、ついにジョン・カーターだけに限定されるのだ。これは異常と言ってもかまうまい。
 ルポフがどういうつもりで、“アーノルドのフラ”がジョン・カーターだと言ったのか、詳しいことはわからないのだが、この一点に関するならば、バローズがアーノルドの作品を読み、そこから主人公のイメージを借りてきたと言いたくもなるだろう。
 この一点、つまり長命であるという点に限ったのは、もちろん、このあとのアーノルドの物語が、バローズのそれとは異なった展開を示しているからだ。簡単に触れておくことにしようか。おそらく、日本の読者は永遠に読むことのない作品だと思うから。
 フェニキア人というとおり、主人公のフラは、おそらく紀元前の八百年頃から生き続けている人間で、その姿は三十歳前後のままでとまっている。そして物語は、彼がとある港で奴隷にされていたブリテン人の王女ブロドウェンと出会うところからはじまる。
 フラは奴隷商人とかけあって、彼女を救い出す。そして自分の船を駆って、彼女を故郷に送り屈け、そこで彼女と緒婚する。その時代のブリテン島は、ローマの文配下にあった。そしてブロドウェンと幸福な生活を送っていたフラは、ローマ人の策略のために殺される。まちがいではない。本当に殺されてしまうのだ。このあと何度かよみがえり、何度か死ぬ。
 やがて、フラは十四世紀になってよみがえり、英仏の百年戦争に騎士として加わる。ブロドウェンは、はるか昔に死んでいるのだが、彼女の霊はしばしばフラの前に現われ、そのつど重要な役割を果たす。もっともフラは、ブロドウェンの愛情にもかかわらず、何人かの女とも愛しあう。百年戦争のときのエピソードが、この物語のほとんどを占めているのだが、そとでも一人の娘を愛し、誤まって彼女を自分の手でフラは殺してしまうのだ。
 その後、フラは、エドワード黒太子がクレシーの戦いで勝利を納めた際、黒太予から妻のフィリッパヘの伝令を頼まれ、海を渡ってイングランドへ戻ろうとする。その途中、難破し、海岸へ流れつき、そこで意識を失なう。目覚めた彼は、そこがイングランドであるととに気付き、黒太子の伝言を、フィリッパに届けようとする。
 そしてようやくの思いで女王のもとにたどりつき、黒太子からの手紙をさし出すのだが、それはなぜか古びてくさりかかっている。彼がほんの一晩意識を失なっていたと考えていた間に、実は二百年もの時が経っていたのだ。
 それを知って絶望したフラは、毒をあおいで自殺し、最愛のブロドウェンのもとへおもむく。

 ざっとまあ、とのような話であり、フラの死と蘇生を、カーターのバルスームと地球の往復という形でとらえるとするならば、構成として似ているということまではできるだろう。だが、それならば、アーノルドのこの作品は、ハガードの「洞窟の女王」の影響下にある(少なくとも同時代ではある)作品といったほうが適切であるだろうし、バローズがハガードの影響下にあるというのもまた定説になっているのだから、とりたててどうこう言うべきものではあるまい。
 結局のところ、アーノルドの物語は歴史物語であるので、主人公もまた一種の狂言回しとしての役割を果たしているのにすぎないのではないかと思えるのだ。こういう言い方をするのが許されるならぱ、バローズはアーノルドの作品を読んだという可能性は十分にある、そして舞台設定や主人公の一部をそこからインスピレーションを受けた、こう言うだけでとどめておくべきだろう。
 つまりジョン・カーターの大部分は、フラとは根本的に異なっているということであり、ルポフのいうように、フラ=カーターとまでいうことはできないということだ。けれども、もしも、その一部でも共通していることが確実だとすれば(それはぼくには確実だと思える)、ジョン・カーターのキャラクターの他の部分にも、他からの借り物の部分があるのではないがという可能性が出てくる。あるいは、それが当然というぺきだろう。
 「火星のプリンセス」におけるジョン・カーターは、何度も言うように、実に奇妙でぎごちない存在なのだ。それはターザン以降のバローズの作品の主人公たちが、あまりに通俗的、一般的なキャラクターであるのに対して、歴然とした差を見せている。次回は、それについてもっと突込んでいくつもりでいる。
 もちろん、こう言ったところで、ぼくはバローズの重要性を否定しているわけではなく、かえってバローズの目の付けどとろの正しさと、その表現について、感嘆しているのだ。何しろ、「火星のプリンセス」におけるジョン・カーターは、ぼくの最も気になる何人かのヒーローの一人であるのだし、それを最初の小説で造り上げたのがバローズなのだから。

 少しページが余ったので、再び、この文章でやろう。「フェニキア人のフラ」を読んでいて、突如、長生きする人たちの話というのが気になってきたのですね。ハインラインの「メトセラの子ら」や、ウィルスン・タッカーの「時の文配者」等々、SFじゃ当り前なのだけれども、それは多くの場合、長命であることが一つの利点として描かれているわけね。で、SF以外でも長命というのは、意外に多いわけで、ま、それはいいのだけれど、その扱われ方というのは、ちょっとちがうのではないかという気がしてきたのです。長命の人というと、ぼくなんかはすぐに「さまよえるオランダ人」だとか、「さまよえるユダヤ人」を思い出すせいかもしれないけれども、何となく業の深さを連想するのです。たとえばここに「My First Two Thausand Years」(1928年の作品)などという「さまよえるユダヤ人」を扱った作品があるのですが、これが、実にその業の深さの物語なのです。で、その辺が、ハガードやアーノルドのそれと共通していて興味深いわけ。ところがバローズのジョン・カーターにあっては、必ずしもそうとは限らないのでして、長命が悪いことではなく、良いととなのだというのは、実にこのジョン・カーター以来なのではないか、とまあこんなととを思いついたのです。もちろんこいつは仮説、誰か、本気で考えてみませんか?
 ではまた次回をお楽しみに。


ホームページ | 解説集