鏡明
ボクはなぜとても強い人〈ヒーロー〉の活躍する〈ハシャギマワル〉物語に魅かれるんだろう。
SFもそういう話は大好きだなあ。――
西部のヒーローとジョン・カーター
SF専門誌「奇想天外」1977年12月号連載エッセイ
Dec.1977
ジョン・カーターが何者であったのか、それはバローズ本人しか知らぬことであろうし、バローズはそれについてほんの少しのヒントも残さずにこの世を去ってしまった。それを今になって、日本人のぼくがどうこう探し求めるというのは、ほとんど意味のない作業であるかもしれないし、データの不足は、どうしようもない壁として存在している。
ジョン・カーターについて、何がどうなっているのか、その正体と機能に関する回答が与えられていれば、もうそれをそのまま使ってしまえばいいのだが、どうやらそんな都合のよい研究など存在していないようだ。つまり舞台設定に気を取られすぎているか、小説のプロットに目が行きすぎているか、そのどちらかなのであり、ジョン・カーターその人には通りいっぺんの目しか配られていないように思えるのだ。
ぼくにしても、ジョン・カーターについて語られた幾つかの意見に魅力を感じないわけにはいかない。
たとえば、1753年のジャン・ジャック・ルソーの「人間不平等起源論」に発する社会人と自然人の対比による「高貴な野蛮人」のモデルの一つであるという説だ。つまり社会の中に生きる人間に対して、いかに自然人が自由であり、平等であるかを示すととによって、現実の文明社会の欠点を追及するというわけだが、その自然人のあり方を近代人の理想的なあり方としてルソーは示している。げれども同時に、ルソーは、そのような人間や自然社会の存在を概念として捉えているだけであることを明言しているし、あくまでも現在の社会のあり方に対する鏡の役割をそこに持たせているにすぎない。
けれども、フェニモア・クーパーの「レザーストッキング物語」(1823年)の主人公ナッティ・ボムパーをはじめとするフロンティア小説の主人公たちの中に、「高費な野蛮人」のイメージを見ることは、難かしくない。つまりそとでは、「高貴な野蛮人」たちは、慨念であることをやめて、実在しようとしているように思えるのだ。やがてはダイム・ノヴェルズという形態に堕ちていくフェニモア・クーパーのナッティ・ボムパーは、フロンティア小説というまったく新らしいアメリカで生まれたジャンルのイメージ・シンボルとして、重要な存在なのだ。
ナッティ・ボムバーによって、「文明からの逃亡者と定義しうるタイプとしてのフロンティア・ヒーロー」は創造されたのだ。「遥かなる反響」というフロンティア小説論をまとめた元田修一のH・B・パークス引用をそのまま使わせてもらえば、フロンティア・ヒーローとは「勇気と忍耐をともなう披術的熟練と、知性偏重に不信感を抱く素朴な性格と、生来の正義感、男性の友情に対する信義以外のあらゆる社会的、家族的拘束からの解放、特に文明からの偏執的な逃避衝動」をその特質とする者たちということになる。
なるほど、そこにはルソーの自然人のイメージは底流としてまだ存在している。そしてそれがデッドウッド・ディックやキット・カースンといったダイム・ノヴェルズの西部小説群を経て、バローズに至るという図式は、それはそれで実にわかりやすい。それがジョン・カーターではなく、ターザンであるとすれば、まさになるほどと膝を打ちたくなるほどだ。
たしかに「レザーストッキング物語」の一連のエピソードにおけるナッティ・ボムパーは、「文明の逃亡者」と呼ばれるにふさわしい。けれども、もしもすべてがこの「高貴な野蛮人」に対する賞讃とあこがれによって割り切れてしまうほどに単純ならば、なにもぼくは考え込みやしない。「文明の逃亡者」という言葉そのものに、ぼくは「高貴な野蛮人」という言葉に対する矛盾を見てしまうのだ。
ナッティ・ポムバーその人は、すでに文明に追いまくられ、逃げまどう存在ではなかったのか。それはたとえば「モヒカン族の最期」という作品に代表されるように悲劇的ではあるけれども、結局は文明の優位を逆説的に語っているのではないだろうが。何よりもナッティ・ボムバーという存在そのものの内に、実は文明と自然の間にはさみとまれ、からみとられた人間の矛盾か感じとられるのであるし、それを塞本にしたダイム・ノヴェルズのフロンティア・ヒーローたちの間にも、アウト・ローでありながら、文明と道徳の産物である法の守護者の姿を見てしまうのだ。それはやがて「高貴な野蛮人」の自然礼讃とは別の地点へたどりついてしまうことになるだろう。
現実に19世紀のアメリカを席捲したソシアル・ダーウィニズムの国は、自然に対する文明の優位という思想を根底に持っていたであろうし、フロンティアという概念そのものがすでに文明を拡大していくということを示していた筈だ。
つまりここまでくれば、ぼくは「高貴なる野蛮人」をジョン・カーターの原型と認めることに魅力を感じつつも、そう言いきってしまうととには疑問を感じざるを得ないのだ。それよりも、彼を「高貴なる文明人」と呼んでしまいたい衝動に駆られてしまうほどだ。文明人よりも文明的な人々が、実はアメリカン・ヒーローにおける自然人ではなかったか。フロンティア・ヒーローは、「文明からの逃亡者」であったかもしれないが、ついに「文明への反逆者」ではなかったのかもしれない。そしてこれはぼくにとっては、とても重要なことのように思える。「文明への反逆者」ではないこと、つまりそれこそが初期のアメリカSFのヒーローたちにとっても、その読者にとっても、重要な要素であった筈だからだ。フロンティア・ヒーローにおける自然人の要素には、実は最初から文明を含んでいたのではなかったかと思える。そしてそれは文明破壊者としての悪人に対して、暴力をもってしか対応できず、服従させえないという一点をもってルソーの「自然へ帰れ」。という叫びとは決定的に別れていってしまうのだ。
あるいはまたジョン・カーターをして、中世の騎士の流れを引く者という定義がある。これまたなるほどと思われるのだが、実はここにもまたおとし穴がある。
デジャー・ソリスという女性に対して絶対的な愛を誓い、ヘリウムという国に忠誠を誓い、友人を裏切らず、常に戦いを恐れず、自分の生命の危機さえかえりみずに不義不正を憎み、しかも謙譲の美徳をもっているジョン・カーターのあり方は、十四世紀に印された騎士道の戒律を具現化したもののように思われる。そしてまた剣を持ち、ソートを駆り、愛する女性を救うために怪物や悪人と戦うというストーリーもまた中世の騎士物語を連想させるだろう。
けれどもそれが思いもかけずもろい仮説であるのは、ほんの少しそれをつついてみれば明らかになるのだ。
フィリップ・デュ・ピュイ・ド・クランシャンの「騎士道」によれば、数多い騎士道の戒律も結局、つぎの三つの原則に要約されるのでほないかという、まず公教会の教え命ずることのすべてに従わざるを得ないという「宗教的原則」、つぎに中世の封建的な社会に生きていることによる騎士の地位から生ずる「世俗的原則」。言ってみれば、封建社会を運営していくために必要な義務を果たさねばならないということになる。たとえば王への忠誠(国への忠誠という概念は、中世にはまだ存在しない)、あるいは部下や家臣に対する封建の義務の徹底ということになるだろう。そしてもう一つ、男子の名誉に忠実であるという「個人的原則」。
実際問題としてこうした騎士道精神というものは、ヨーロッパにあっては十九世紀初頭の近代化の嵐の中で、完全に消え去ったということになっている。そして残ったものは、虚飾としての騎士道であり、それが最も力を発したのは、同じ時代のアメリカであったという。そうした偽の騎士道を標榜した偽騎士団の歴史やエピソードというのは、それはそれで面白いし、興味の尽きない素材である(ジョン・ジョゼフ・モーゼルが1910年に創り上げた、聖ラザロ・聖母カルメル救護騎士団の物語や、二つのエルサレム聖堂騎士団の争いなど、人間の虚栄心と空想力に限りがないことを教えてくれる)にしても、今は取り上げる必要はあるまい。
問題はジョン・カーターのキャラクターに戻る。
前に挙げた騎士道の三つの原則の内、ジョン・カーターにあてはまるものは、実は三番目の「個人的原則」だけなのだということは、誰にでもわかるだろう。騎士道が、当時の社会的制度を抜きにして存在しえないことは明白であり、ジョン・カーターにおけるいわゆる「騎士道」には、見事にその社会性が欠落している。そしてその最も特徴的なことは、騎士道において最も重要である筈の「キリスト教」に対する言及や、その影響をまったく欠いていることだろう。
バローズにおけるキリスト教の欠如は、それだけで充分に一つのテーマとなるかもしれない。たとえば、ターザンにおいても、ジェーンとの緒婚はキリスト教的な意味での結婚ではない。それどころか、牧師の介在する結婚が故意におとしめられているかとさえ思われるほどなのだ。もちろんバローズが宗教に対して無関心であったとは、とうてい思えない。それどころか、彼の作品にはその宗教の真相を見つめることによって成立するものすら存在する。その良い例は、「火星シリーズ」の第二番と第三番だろう。そこでは火星の女神であるイサスの宗教の虚構をあばくことにストーリーの相当な部分が費されている。そしてまたバローズ・タイプと称される後の作品の多くにあっても、その世界の創造にあたって様々な異教を忍び込ませておくことを一つの定石としている節さえある。言ってみれば、バローズ・タイプにおける宗教は、まさにその虚構をさらけ出すためにだけ存在しているのだ。
そして、キリスト教は、そこにはない。
なぜそうなのかというならば、ぼくはバローズにおけるダーウィニズムの侵透を挙げておきたい。
「火星シリーズ」の第二巻「火星の女神イサス」でジョン・カーターに捕えられたバルスームのファースト・ボーンたる黒色人の一人が語ってきかせるバルスームの生物の歴史はダーウィンの進化論の変形として読まれるべきだ。そして何よりもバルスームという世界を支えているのは、あの「適者生存」であり「自然淘汰」の仮説なのだ。そしてそれがアメリカのソシアル・ダーウィニズムの遺産であることもまた疑うことができない。その意味で「火星シリーズ」はまさに一つの科学小説なのであるといってもいいだろう。
ダーウィンの進化論は、人間を、神の手から、科学のもとに奪いかえし、それを一個の物にまで環元した。そこでは、否応なく、キリスト教はその存在基盤を失なっている。そしてアメリカは、そのダーウィニズムの嵐を国家単位として、社会そのものとして、はじめてまともに受け止め、消化しようとした史上最初の国であった。(もちろん極端に保守的な反応もあった)そしてバローズもまたその創造する世界から、キリスト教を放り出したといってしまったら、言い過ぎだろうか。彼ほどに宗教の存在を一つの社会の必須条件と考えていた人間が、キリスト教を忘れるということは考えられまい。そしてたとえば一つの光景を描写するに当って、ダンテの「神曲」を持ち出すほどなのだから、そこには明らかな作為を感じとることができるのだ。
バローズを、彼が自分で言うほどに無教養な人聞と考えるのは、たぶんまちがいといってもいい。けれども、彼が、自分の作品を中世の騎士物語をモデルにして書き上げたといってしまうのは、少々、無理だと思われる。それは前に触れた彼の第二作「The
Outlaw of Torn」の矢敗振りからしても自明のことだ。彼の持っていたのはイメージとしての騎士道でしかなく、それは真性の騎士道精神とはかけはなれたものであったのだ。
だいたい、中世の騎士物語は、一つの階級社会の中でのみ進行することによって成立するのであって、それとたとえば「火星のプリンセス」におけるジョン・カーターのサクセス・ストーリー、言い変えれば階級差をぶち破ることによって成立する物語(それはまさにアメリカの夢なのかもしれないが)と同一視してしまうこと自体、馬鹿げているではないか。それならば、平民の息子が機知と策略で王女と結婚してしまう童話や民話を引き合いに出すほうが、まだ気がきいているというものだ。
ぼくは、騎士道精神の一部が変形されてフロンティア・ヒーローのキャラクターの或る部分を構成しているということまで否定するつもりはない。けれども、それは何も騎士道精神というほどのこともなく、もっと以前のモラルに原形を見るととだってできるという程度のものではなかったかと思うのだ。そしてジョン・カーターの精神は、そのフロンティア・ヒーローまででとどめておきたいと思う。
なぜ西部であれほどに女性が敬まわれたという伝説が存在するのか、ということを説明するこんな俗説がある。
話は実に単純で、西部では男に比べて女性の絶対数が決定的に不足しており、貴重であったという実に散文的な現実による結果だというのだ。もちろんこいつもまた嘘なのかもしれない。だが、西部の男がすべて騎士道精神の持主であったというよりも、まだ説得力がある。
結果として同じようなことになるかもしれないが、その理由にはこれだけの差の可能性があるのだ。西部劇における騎士道糟神などというものは、本来的な意味において、虚構でしかないと言い切ってもかまうまい。
ジョン・カーターを、ヒーローとして認めないという考え方もある。ぼくにしても、不完全なヒーローであるという考えは持っている。だが、ジョン・カーターをヒーローではないという意見の根拠を見ると、多くの場合、彼が火星に行ってはじめてヒーローたりえたからだということを挙げてあるわけだ。とれは信じられないことだろう。つまりジョン・カーターは、地球にいてはまったく駄目な人間であり、彼の物語は、緒局のととろ現実逃避者の夢でしかないというわけだ。実は、この考え方は、たとえばリン・カーターやL・スプレイグ・ド・キャンプといった現代のバローズ・タイプあるいはヒロイック・ファンタスィ作家の一部にすら根強い物の考え方である。リン・カーターの「緑の太陽」シリーズなどは、現実世界での敗残者というジョン・カーター像の展開例としての最適のものだ。
だが、それは「火星のプリンセス」を注意深く読むことによって、簡単に否定される。つまりバローズは、ジョン・カーターをその種の敗残者として読まれることを避けようとしていたように思われる。実際、ジョン・カーターは、最終的には大金持の成功者として描かれているのだ。そしてもう一つ、ジョン・カーターを「二つの世界で最大の剣士」と呼ぶといういき方は、まさにジョン・カーターが、地球でも立派にやっていける人間であることを示しているではないか。ジョン・カーターが、西部劇のヒーローたちの血を引いているのであってみれば、それもまた当然というべきだろう。