ERB評論集 Criticsisms for ERB


鏡明

ボクはなぜとても強い人〈ヒーロー〉の活躍する〈ハシャギマワル〉物語に魅かれるんだろう。
SFもそういう話は大好きだなあ。――
ジョン・カーターと騎士道

SF専門誌「奇想天外」1978年2月号連載エッセイ

Feb.1978


 前回、バローズの「火星のプリンセス」が、中世の騎士物語とは、イメージは別として、本質的には別物なのだというようなことを言ったけれど、もちろんこいつは極論なのだ。それは承知の上だが、ジョン・カーターとくればすぐ騎士物語とくる短絡には、耐えろれない。それは、どちらの物語をも、良く読んではいないということになる。ジョン・力ーターが、通俗的な「騎士道精神」の持ち主であることは確実だが、それが真の意味での騎士道精神ではないのは、前回に話したとおりだ。
 さてと、実はその「騎士道精神」なるものが問題なので、ぼくはそれをアメリカのフロンティア・ヒーローと共通するものなのだと言った筈だ。そしてアメリカン・ヒーローは、多くの場合、騎士道的であることを必須条件としている。それはただ単に正義の味方であるというような条件とは異なって、より本質的なものであるにちがいない。
 正義なるものが、そのときどきによって、揺れ動くものであるのは、誰もが知っている筈だ。ぼくとしては、実に簡単に、そうした正義と悪の相対性を、例の南北戦争に見てみたいような気がする。思いつきさ、もちろん。ただ、勝てば官軍の北軍よりも、南軍に多くの同情なり共感が寄せられた形跡があるのは、判官びいきという弱者への共感がさほど強いとは思えぬアメリカにあって、何とも面白い事態ではないかと思える。言ってみれば、そこでどちらが正義なのかという判断が、揺らいでいるように思えるのだ。
 正義の味方という評価は、相対的な規定であり、騎士道精神は、絶対的なものではないか。話はそういうことになる。
 最近翻訳の出たO・E・クラップの「英雄、悪漢、馬鹿」(新泉社)は、「アメリカ的性格の変貌」というサブ・タイトルの示すとおり、英雄という存在のアメリカ社会における地位の変化について述べており、ぼくは久しぶりに興奮して読み通した。クラップという人は、社会学を専攻しているだけあって、心理学的な分析ではなく、社会学的なアプローチをしてくれているので、ぼくにはとても有難い。要するに、社会をそこで顕著に見られるモデルのタイプによって分析し、把握しようという、言ってみればよくあるタイプの研究なのだが、そこで同時にアメリカン・ヒーローの変化についても語られている。そしてその裏付けが、アメリカ人のヒーローに対する態度の数量的な調査であることが何よりもうれしい。
 ひるがえれば、そうしたアプローチが可能であるということ自体、アメリカ社会におけるヒーローの重要性を示しているということにもなるのだが、今はまだその方向に足を踏み込む余裕はぼくにはない。とりあえずは、ジョン・カーターに話を絞っていくことにしよう。
 さてと、O・E・クラップの著書の中で、ぼくが感心したのは、アメリカ人の抱く「英雄のイメージ」を次の五つのカテゴリーに分類してくれたことだ。

〈カテゴリー〉 〈テーマ〉
(1) 勝利者 欲っするものを得る、皆を打ち負かす、チャンピオン。
(2) 華麗な演技者 観客の前で光輝を放つ、好評を博する。
(3) 社会的受容性のある英雄 好まれる、魅力的、善良、あるいは人間的に集団に受け入れられやすく、集団所属の楽しさの縮図となる。
(4) 独立人間 独りで立ち、独力で進路を切り開く。
(5) 集団の下僕 人をを扶ける、協力、自已犠牲、つまり集団への奉仕と連帯性。
(仲村祥一、飯田義清訳)

 何に感心したかといえば、ヒーローの性格について、具体的にこれだけのものを挙げ、それでまとめてしまったという思い切りの良さに感心したというわけだ。たぶんこれはとても珍らしい例ではないかと思う。少なくともぼくには、これほど思い切り良く、すべてを切り落とすことはできない。クラップの出発点は、これらのモデルを設定することによって、それが高い位置を占める社会的集団に焦点をあててみようということだから、そこには常に社会の存在が意識されている。そして正義とか悪とかいう道徳的な問題を避けていることに注目すべきだろう。
 クラップは、これらのヒーローのカテゴリーが同時に在在するのではなく、個別に一定の集間内で評価を得るのだという仮説からこれらのカテゴリーを設定している。けれども、ジョン・カーターにあっては、こうしたカテゴリーが共存しているかのように思えるのだ。こういう話のつなげ方をしてしまうのは、クラップの目的とは異なるだろうが、「火星のプリンセス」におけるジョン・カーターの役割は次のようになる。
 「はしがき」から第3章「火星到着」までは(4)の「独立人間」としてのジョン・カーターの側面が語られ、4章から10章までは(2)の「華麗なる演技者」であることによって緑色人の世界に受け人れられる(3)「社会的受容性のある英雄」として語られていく。そして11章から29章までは(1)の「勝利者」としてそして最後の章に至って(5)「集団の下僕」としてのジョン・カーター像が造り上げられていく。
 本来的に他所者、異邦人という存在は、肯定的であるよりも否定的なものとして語られていくことが多い。つまりそこに社会というものが厳然として存在している場合、その社会に含み込まれていない異邦人は、社会の機能に良い結果よりも悪い結果をもたらすという認識の結果、否定的な役割をもたせられる。神の造ったこの世界に堕された悪魔の存在などはその良い例であるし、徳川時代の異国人の扱いなども、その例の一つだろう。もちろんアウト・ローとしての異邦人が、社会そのものに根本的な変革を与えることもあるが、その場合でも、アウト・ローはアウト・ローとして変革が完成した段階で、その社会から立ち去っていくことになる。アウト・ローがインサイダーに変ることなくして、社会はそれを受け人れないのだ。
 バルスームにおけるジョン・カーターの位置は、こうした異なる価値基準を次々に満足させていくことによって、複数の社会の中でも一定している。けれども、地球人であることによって、まさに文字通り異邦人であるのだ。こうしたインサイダーであると同時に、異邦人であるという矛盾を抱えたジョン・カーターのあり方が、最も強くでているのは「火星のプリンセス」なのであり、それ故に、物語そのものが、ジョン・カーターのアウト・ロー性を常に支えている。
 バルスームの風景が、ただあるものとしてのみ存在しているのではなく、発見という驚きを持った感覚で支配されているのは、ジョン・カーターが異邦人であるからだ。話はあっちこっちするけれども、16、7世紀以前の異世界物語で到達できる範囲は、だいたいにおいて月が限界であったと見ていい。事実、19世紀の前半までは、ほとんどが月を舞台にしていたし、それで用が足りていた。
 研究不足なので、確信はできないけれども、パーシィ・グレッグの「Acros the Zodiac : The Story of a Wrecked Record」(1880) あたりが、火星の社会が出てくるはしりではなかったかと思う。そういえば、もっとおそろしい本があることがわかった。グスタフ・W・ホープの「Journey to Mars」という作品がそれで、1894年に出版されているのだけれども、これが何とアメリカ人の海軍将校と火星人の王女とのラブ・ロマンスを扱っているのだという。しかも、エドウィン・レ・アーノルドの「火星のガリバー」とは少々ちがって、そのラブ・ロマンスが小説の中心となっているというのだから、これはまずい。現物に当っていないので何とごも言えないけれど、次回には必ずや手に入れておくことにしよう。
 何の話だったかといえば、バルスーム以前の異星の文明や社会描写が、実は紹介であり、しかも地球の現実に対する風刺なり批判がその背後にある一種の文明批評であったということを言いたかったのだ。けれども「火星のプリンセス」におけるバルスームは、丈明批評の材料としてではなくジョン・カーターの発見によって構成されていく。そしてジョン・カーターの異世界の発見は、同時に彼白身のアイデンティティの発見に連なっていくのだ。アイデンティティを失なった人間というテーマは、アメリカの小説の重要なテーマではあるけれども、「火星のプリンセス」はそれを実に通俗的な形でやってのけている。ヒーローとしての要素を備えた主人公に、それを回復させる機会を次々に与えていくというわけだ。実際問題として、それは「火星のプリンセス」にのみ見られる構造であるのだ。
 「火星のプリンセス」におけるジョン・カーターと第2作「火星の女神イサス」における彼との比較を考えてみれば、物語そのものの方向と、主人公のキャラクターの相違は歴然としたものになる。舞台の設定そのものが、より奇異なものをという興味の方向へ進み出し、ジョン・カーターの役割もまたそれをいかにして切り抜けるかという一点に絞られてくる。注目すべきなのは、第2巻以降では、ジョン・カーターは完全なインサイダーとして処理されていることだ。赤い油を塗って赤色人に変装するという第一巻での同化への意志は、ほとんど見られないし、弱者への認識や保護の感覚のもたらす違和感も姿を消す。それはバルスームそのものが、ジョン・カーターの「騎士道構神」を受け入れてしまったかのようだ。そしてジョン・カーターは異邦人であることをやめる。実際、ジョン・カーターは、地球に戻ってくることによって、かえって地球での異邦人となってしまう。それ故、ジョン・カーターは、バルスームにとどまり続けることができるのだ。「火星のプリンセス」でのラスト・シーンが、社会における異邦人としてのヒーローの扱いの一つのモデルとすれば、第2巻以降のジョン・カーターは、まさにインサイダーとしてのヒーロー像を示している。
 それは第6巻の「火星の交換頭脳」に登場するもう一人の地球人(アメリカ人)ユリシーズ・パクストンの扱われ方にも、見てとることができる。ユリシーズ・パクストンが直面する価値観や行動様式の相違(それは「火星のプリンセス」では重要なファクターであった)は、バルスームそのものの持つ相違ではなく、ラス・サヴァスというバルスームでも特異な存在によって(つまり個人)示される。言わば、ラス・サヴァスその人が異邦人なのであって、ユリシーズ・パクストンはすでにインサイダーとしてあるのだ。それ故、ユリシーズ・パクストンの冒険は、他の赤色人たちのヒーローの冒険とさほど変らない。ただ地球人であることによって得られる能力(それはほとんどが重力差による体力の問題に帰される)が、ジョン・カーターの類似物であることをこちらに知らせてくれるだけなのだ。つまり、ユリシーズ・パクストンの物語は、緒局のところが、ジョン・カーターの影の内に含まれてしまうことになる。
 「火星のプリンセス」でジョン・カーターの果たした役割は、たとえばターザンのように文明に対する自然の優位という形で、理解されがちであるし、それは「火星のプリンセス」そのものを一種の逃避の産物と見せてしまうことに通じる。つまり、火星が明らかに地球(アメリカ)にまさるユートピアであるという認織を強要することになる。
 たしかに「火星人は幸福な人々だ。そこには弁護士がいない」というような、ひどく現実的な感想が見られる部分もある。けれども、ジョン・カーターのやり方は、バルスームのライフ・スタイルを丸呑みにするのではなく、それどころか、バルスームに地球的な価値観を持ち込むことで、バルスームで地位を獲得していくことになる。それはかつてのフロンティア・ヒーローたちが、自然を高みに持ち上げておきながら、その実、文明を持ち込んだという役割を果たしていたここと同じなのだ。
 そしてジョン・カーターの行動様式とバルスームの慣習との差は急速に失なわれていく。たとえば緑色人ということさらに特異なキャラクターを持った生物のタルス・タルカスが、ジョン・力ーター的な(地球人的な)性絡に変化していく様をみれば、それが良くわかるだろう。そしてその変化は、もちろん良い方向に向かっているのだ! こうした変化は、それこそどこにでもころがっている。仮りにバルスームがユートピアであるとしても、それはそれ以前のほとんど絶対的な理想形としてのユートピアではないのだ。
 ジョン・カーターがバルスームを変えていく作業の中で使用される道具は、実は「騎士道構神」として認識される行動の規範であると思われるのだ。「先行きでどうなろうと義務観念の導くままにしたがうというのが、わたしの生涯を通じて常に一種盲目的な信条であった」(「火星のプリンセス」第1章)
 ここで語られる「義務観念」こそがジョン・カーターの「騎士遺精神」なのであるといってもいいだろう。「そもそも、頭を使うなどというしち面倒臭い過程を経ずにずに、なかば無意識のうちに義務感にかりたてられてまっしぐらに突進するように頭の構造ができているのだ」
 たとえば、もう一度、こう繰り返されるわけだが、それは何に対する義務感であるのか語られない。ぼくはそいつを地球的な(アメリカ的な)価値基準を守るという義務感であるといっておこう。といったところで、それは真に解答したわけではないことぐらい、ぼくにもわかっている。たた、その価値基準が、社会を破壊から守るということのために存在するのだということだけは言ってもいいと思う。そしてヒーローとしてのジョン・カーターの限界は、実にそこにあると思うのだ。
 ジョン・カーターが、いくら「愛」だの「忠誠」だの「友情」だのと口にしたところで、その本質は「力」にあるのだし、ジョン・カーターの義務観念は、それをたわめる方向に働かざるを得ないのだ。本来、アウト・ローであった者が、インサイダーになることによって当然失わなければならないものなのだ、それは。そして同時に「騎士道精神」そのものの限界となってしまう。
 ジョン・カーター以降のアメリカン・ヒーローの多くは、そうした限界を常に抱えているのだから、それを問題にするのは大変なことになりそうだ。けれども僕の求めるものは、そこにあるように思える。


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