ERB評論集 Criticsisms for ERB


武部画伯追悼特集 武部本一郎画伯を偲ぶ
金森達『弔辞』

早川書房刊『SFマガジン』1980年10月号収録記事


 武部本一郎さん。ぼうようとして、カザリ気のないお人柄、テレ笑いをされながら、ギョロリと限を光らせて、「ボクは先生と呼ぱれるのが嫌いなんですよ」と云われる言葉を真にうけて、18歳も年長の大先輩に対して、武部さん、と気易く声をかけさせて頂きました。
 今日も又、勝手ながら最後のお別れを武部さん、と呼ばせて下さい。
 丁度、10年前の夏の今頃、終始、起居行動を共にさせて頂いた20数日間のヨーロッパの旅の一コマ一コマが本当に密度のある貴重な思い出として、今私の頭の中をかけめぐります。
 「ボクは、日本のどこへも行かないのに、何んでヨーロッパまで来たのかな」と苦笑されていました。
 お酒は一切ダメ、と云われるのを私が無理に水がわりにと、ビールをすすめて仕方なく汗を一ぱいかかれて飲まれた姿も思い浮びます。
 「ボクは大阪の日本橋一丁目で生れたので本一郎の名がついたんだよ」。これは武部さんが生涯持ち続けられた、浪花っ子の気質と心のふるさととして大切にされていたことだと思われてならないのです。
 そして私が生れた大阪市岡のすぐ近くで時を同じくして、偶然にも若き日の武部さんが放浪の日々を遇されていたことも、何かの因ねんと思い、忘れられません。
 ここ数年、段々とお会いする機会も少なくなっていきましたが、本来、武部さんは心身ともに大へんタフな人だと信じ切っていただけにこんなに早くお別れすることが一層に悔まれてなりません。
 ましてや、我々の仕事の上での本当に大きな指標がこれからと云う時に失われてしまったことがもっともっと残念でなりません。
 あの独特の情緒とスガスガしくて味わいの深い画面、絵の中に物語を本当に描ける最高の人だったと私は思います。
 せんえつですが、武部さんならではのお仕事の独創性と今後の評価はますます高くなっていくと思います。
 それだけにこれから真似をする人も沢山出て来てフシギはないと思います。
 しかし、あの武部本一郎さんの世界は、再び生れては来ないのです。
 それが大へん悲しいことですが、又素晴らしいことだとも思います。
 武部さん、どこまでも心残りで仕方ないですが、ユックリとおやすみになって下さい。

(7月23日の告別式での弔辞より抜粋させて頂きました)


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