ハヤカワ文庫SF「永遠の戦士ケイン 野獣の都」
Jun.2008
親愛なる読者よ
わたしは三歳のころからずっと、数多くの本を読んできた。憶えているかぎり、まるまる一冊読みとおした最初の小説は『ティモシー・タッターズ』で、十九世紀のアイルランド開拓を題材にしたお話だった。その本の終わりの方で、主人公のパッツィは、アイルランドの反乱軍を助けてきた自分のやりかたの間違いに気づき、彼らと対決する。そして彼を認めてくれた中流階級の子供たちの父親から、褒美としてその家の靴磨きの仕事をもらうことになる。もっとも、彼が「なんでえ」とか言っていたこと以外には、あまり憶えていないのだが。
それからリッチモール・クロンプトンの〈ウィリアム〉シリーズがあった。これについては、よく憶えている。その筆致は美しく、個人的にはP・G・ウッドハウスの作品の次に面白いと思っている。ウッドハウスもまた、H・ライダー・ハガートやジョージ・バーナード・ショウ(何を言いたいのか、わたしにはほとんどわからなかったが)、チャールズ・ディケンズ(読むたびに、自分の馬鹿さかげんを思い知らされる)などと同じく、わたしの昔からのお気に入りのひとりだった。そのウッドハウスの学園ものが載っている〈ザ・キャプテン〉誌の古い号を読みあさっているうちに、わたしはすっかりフランク・リチャードの作品のファンになってしまった。彼の学園ものは一九二〇年代、三〇年代、四〇年代にわたって大人気で、あのジョージ・オーウェルが、階級制度の要のひとつとして学校制度を批判する長い論文を書くうえで、影響を与えたものだ。もちろんジョージ・オーウェルも、わたしは大好きだった。
九歳のころ、ついにわたしは父の古い蔵書から、エドガー・ライス・バロウズの『ターザンの逆襲』を見つけた(エドウィン・レスター・アーノルドの『セント・ニコラスの警官』などといっしょになっていた─アーノルドの火星を舞台にしたファンタジイは読んだことがなかったが、彼の歴史小説は大好きだった)。
その少し前、キプリングの『ジャングル・ブック』に熱中するあまり、わたしはあやうく退学になるところだった。というのも、インドのジャングルで狼に連れ去られたわたしがいかにして密林で暮らすための技能を身につけたかという話を、ほかの子供たちに、日がな一日、夜になるまで話しつづけ、信じこませていたためである。
もっとも最後には、わたしのその話の信頼性はすっかり失われていたことを憶えている。なぜなら、話が佳境にはいった三時間のあいだ、わたしは大きな樫の本にのぼってずっと話していたのだが、結局そこからおりるにおりれなくなり、寮長にたすけてもらったからだ。だがその『ジャングル・ブック』も、ターザン(あるいは、ターザンの息子のコラク)の魅力にはかなわなかった。ターザンを見いだすやいなや、わたしはシリーズのすべてを読みあさった。ターザンを探し求めて、地方の個人経営の図書館(一週間ニペンスで本を借りれた)で見つけられるだけの本を読んだが、そのときに『火星の交換頭脳』を見つけ、ジョン・カーターの〈火星〉シリーズにも手を伸ばすようになった。
それから何年ものあいだ、バロウズはわたしにとって、もっとも偉大なるヒーローだった。わたしは自分がジョン・カーターとなって、火星のチェスであるジェタンの盤を作るという遊びを考えだし、ついには学校でも〈バロウザュア〉という名前(「バロウズの国」という意味のつもりだったのだが、正しくは“バロウジアーナ”とすべきだった)の雑誌を作り始めた。これはわたしが作った最初のファンジンではないが、もっとも野心的なものだった。
年を重ねるにつれて、わたしはほかの有名なファンタジイにも興味の対象をひろげるようになった。サイエンス・フィクションはあまり好きではなかったのだが、しばらくのあいだ〈プラネット・ストーリイズ〉と〈スタートリング・ストーリイズ〉を数多く集めて、〈英雄コナン〉に夢中になっていた。そうした興味と並行して、スカンジナビアやケルトの神話も好きになっていたのだが、そもそもの興味の始まりは、やはりぼろぼろになった家族の本(今もまだ持っている)、『スミス博士の古典文学簡易辞典』と歴史の本(そのうちの多くがH・G・ウエルズの『世界文化史』に触発されて書かれたもの)だった。
わたしのバロウズヘの純然たる崇拝はしだいに消えてゆき、ほかのヒーローたち─ハックスリー、ポウイス、ピーク、コンラッド、ファーバンク──がとってかわったのだが、皮肉なことに、わたしがエドガー・ライス・バロウズの登場人物に関する記事を〈ターザン・アドベンチャーズ〉という雑誌に書くと、すぐにいくつかの雑誌から、ファンタジイのシリーズものを書かないかという申し込みがあった。わたしの最初の主人公―剣士ソジャン──は、十五歳の時に生み出された。彼の冒険譚は、ほかの惑星を舞台にしたバロウズの典型的なヒーローのものによく似ていた。
その後わたしが〈ターザン・アドベンチャーズ〉誌の編集者になったとき、有象無象のコミックページを減らして、フォスターやホガースといったすぐれたアーティストのコミックを集め、また小説やコラムのページを増やした。それにはかなりの経費がかかったため、最終的にわたしが何をしようとしているのかわかった出版社の社長は激怒したものだ。
わたしの次の仕事は、〈セクストン・ブレイク・ライブラリー〉誌の編集だった。〈セクストン・ブレイク〉は、探偵もののシリーズとしては世界長寿記録の保持者である。彼の冒険譚は一八○○年代にその歴史がはじまり、今なお続いている。映画やテレビ、コミック、そして何千冊ものパルプ雑誌が出版されてきた。
パルプに対するわたしの熱情は続いており、金持ちになれると気づいて、わたしはコミックの原作者になった。十八歳のとき、すでにわたしはフリート・ストリートにたむろする大金持ちの酔っばらいのひとりで、この職業につきものの短き人生をのぼりつめようと
していた。ものすごいスピードで書き、ものすごいスピードで稼いだそばから使ってしまうという人生だ(もちろん、そのおかけですごい速さで書くことが身についたのだが)。この恐ろしい暮らし(当時のことは今ではかすんでいて、よごれたタイプライターとたくさんの壊れたコップしか思い出せない)から、テッド・カーネルがきっと救けだしてくれるとわたしは信じていた。彼は編集者で、当時は三つの雑誌に関わっていた。〈二ュー・ワールズ〉、〈サイエンス・ファンタジイ〉、 〈サイエンス・フィクション・アドヴェンチャーズ〉である。テッドはわたしに、彼の“お気に入り”の雑誌である〈サイエンス・ファンタジイ〉誌に、ファンタジイのシリーズものを書かないかと言ってきた。
わたしはテッド・カーネルのために、〈エルリツク〉を創りだした。可能なかぎり独自のヒーローを生みだそうとして、ゾロアスター教やケルト神話、さらには〈セクストン・ブレイク〉の敵役のヒーロー(特に白子のM・ゼニス)や、ヘルベルト・ブレヒトの『三文オペラ』にいたるまで、さまざまなものを合体させたのだ。もちろん、そのなかにはバロウズの作品も入っている。バロウズの偉大な才能は、単純ながらも非常に効果的なストーリイの構造だ。わたしはストーリイ・テリングの基本をかれに教えてもらった。わたしは彼の手法に感嘆するとともに、大いなる敬意を持って、しばしばそれを模倣してきた。
一九六四年、最初の〈エルリック〉の本が刊行されたのち、わたしばそのころ編集に携わっていた〈ニュー・ワールズ〉誌の出版社から、ファンタジイのシリーズを書くよう依頼された。
わたしはバロウズの伝統に完全にのっとったシリーズを書きたかった。バロウズに感謝を表わすのにはいいやり方だし、同時に、わたし自身も楽しい。しかしその当時、わたしはそうしたジャンルと完全に敵対するラディカルな雑誌を編集していたのだ。その雑誌は(誇りを持って言えば)、最良の作家たちが最高の作品を生み出すのを邪魔しているジャンルのしがらみを、必死で打ち破るうとしているところだった。ジャンルのしきたりを壊そうとする一方で、まさにそのしがらみの見本とされ称賛されているジャンルの三部作を手掛けることは、よいことではないとわたしには思えたのだ。
わたしは自分の書くすべてのものにたいして、良かれ悪しかれ、沈着冷静な判断をくだせると信じている―しかしその時には、現実逃避の本に自分の名前を冠するのがよい考えだとは思えず、そのためわたしは出版社に、本の題名と、自分の名前とは似ても似つかない名前の組み合わせであるエドワード・ポウルズ・ブラッドベリイという名前をつけてもらい、『火星の戦士』、『火星の剣客』、『火星の蛮人』を出版してもらったのである。
「作者について」という紹介文には、ブラッドベリイ氏は一九二四年生まれ(わたしより十六歳年上という設定にしておいた)、極東で過ごし、古代サンスクリット文学に興味を持つが、今は“二人の年老いた親類が残してくれた莫大な遺産が、もはや生活のために働かなくてもよいのだというショッキングな認識をわたしに与えてくれた”とある。
正直に言うと、ブラッドベリイ氏の三部作は、ほとんど仕事と言えるようなものではなかった。この作品を書くのがとても楽しかったからだ。わたしにとって一種の休暇のようなものであり、わが懐かしのヒーロー、バロウズにたいして大いなる敬意を捧げるものてあった。最終巻では、ちょっとしたお遊びとして、ジヨン・カーターなら絶対にしないようなふるまいをわが主人公にさせてみた。ジョン・カーターによれば、自分は人を殺すのは大嫌いなのだそうだが、実は一冊につき二十人あるいはその倍の敵を殺しているのだ。
わたしはこの三部作を、一週間ちょっとで書き上げた。疲れたがとても幸せだった。出版されるやいなや、すぐに忘れ去られてしまうだろうと思っていたが、皮肉にも、それらは版を重ね、生き残った─新しい題名と、わたしの本当の名前をつけられて。日本での翻訳をはじめ様々な国で出版され、ここにまた違う版で刊行されることとなった。
わたしは自分の本の新版を出すにあたっては、ほとんどいつも手を加えるのだが(時には根本的に変えてしまうこともある)、この火星三部作は、どういうわけか、書かれているままで出すべきだと思えた。欠点や楽屋落ち、意気込み、このジャンルヘの熱き想いなどのすべてを、最初に出版された時と変わらぬまま、この中に見いだすことができるだろう。
本書をドン・ウォルハイムの思い出と、ジョン・カーターのファンとなった(わたしからの入れ知恵はなしに)わが娘ケイトと、わたしが書いた本のなかで疑いなく最高の本だと言ってくれた父に捧げる。