武部画伯追悼特集 武部本一郎画伯を偲ぶ
中島梓『わたしの最初の人』
早川書房刊『SFマガジン』1980年10月号収録記事
これまでに、私が27歳で、小説を書きはじめて3年、ヒロイック・ファンタジィを蕃きはLめてまだ丸10ヶ月しかたっていないのだ、ということをくやんだことはない。福島正実さんにただの一度もお目にかかれずにしまったことも、「一の日会」に入れな水ったことも、それなりに諦めがついた。
しかし今度だげは私はあと10年、早く小説を書きはじめたかった。せめてあと5年、武部本一郎さんに生きていていただきたかった。私はついに間に合わなかったのだ。私の最初の、そして最大の夢は、私が梯子を作りあげ、いまやまさにそれへ手をかけようとした刹那に私の手のさきから、するりとすりぬけていってしまった。武部さんは逝ってしまわれた。世のなかには、真に取り返しのつかぬこと、というものがある。私はこれから先、私のどんなばかげて大それた夢が実現しようとも、決して叶うことのないこのひとつの夢のいたみを忘れることはないだろう。
私が最初にSFを手にしたのは武部さんのおかげである。5つか6つの頃、私は、「嵐の白ばと」だの「幸福の花かご」だのという少女小説の、裳裾もきらびやかな、美しい「さしえ」に憧れて、それにうす紙をあてては書きうつそうとしていた。中学に入ったとき、図書館の片隅で見つげた「宇宙人ビッグスの冒険」という、一冊の「少年少女宇宙冒険小説」のさしえに、あの忘れがたい、快くひどく心にかなう同じ絵柄をみつけたとき、私は狂喜した。そして、私はその画家の名前を覚えた。武都本一郎。――「火星シリーズ」を、「ターザン」を、私は、表紙の絵にひかされて買い――そして、しだいに、その中みそのものがどんなに私の心にしっくりと来るかを知った。武部さんは私がファンになった、最初の画家であった。
そのころの私は、武部さんの表紙であれば、中は見ずにすぐ買ったものである。やがて私は「コナン」に出会った。鏡明さんの訳と、武部さんの絵――それによって私の一生は決まったのだ。
たぶんその2年ほど前ではなかったかと思う。私は、自分の学校の名簿を、つれづれなるままに眺めていた。私はそれをするのが好きだった。一年下のクラスの、生徒たちの名と、その父親の名と職業欄を眺めていた私は、ある一箇所で、とびあがり、名簿を握りしめた。そこには、「武部紅子 父 本一郎 職業 画伯」とあった。
私は、武部さんのお嬢さんと、5年間も同じ学校に通っていて、ちっともそれを知らずにいたのである。私は昂奮し、誰かにその大発見をしゃべりたくて狂気のようになった。しかし、その頃の私は、SFのことを話しあう友達ひとりさえない女子高にぽつんと置かれた孤島だった。私はひとりで、わびしくその驚天動地の事件をかみしめていた。
そのころから私は、「こういう絵のつくような、こういう話」を書きたいものと考えはじめていたのだと思う。
すべては夢のまた夢だ、と思っていた。それなのに私の前で、「開け胡麻」をきいた扉のように世界はひらけてゆき、私は鏡明さんの謦咳に接し得るようになり、SF作家クラブに入り、小松左京さんに解説を書いていただいた本を上梓でき、そして「コナンのようなお話」をさえ書いて、読んでもらえるようになった。私は、子供のころにみていた夢の10の内9つまでを実現した幸せ者である。
その私が、のこるひとつの夢がついに見はてぬままに終わってしまった、といって涙を流すのは、あまりにも欲張りというものかもしれぬ。業つく張りといわれるかもしれぬ。
しかし、私にとって、私をここまで導く最初の遺しるべとなったのは武部さんなのだ。いつか、武部さんに絵を描いていただいて――それは私にとってどれだげ胸はずむ夢だったことだろう。武部さんの絵を切りぬいてあつめた子供のころの夢に、私は、ようやく追いついて、あとは時節を待つばかり、と信じていたのである。私は、岩田専太郎さんにも、ついに手がとどかなかった。いままた、武部さんが、遅すぎた私をあわれむように去っていかれてしまう。
「グイン・サーガ」は加藤直之というすばらしい道連れを得て、長い旅へ乗り出した。もちろんそれは私の幸福である。だが私の中にはまだ、武部さんのための席も、ひそかなタイトルさえかくれていた。「異世界の勇士」という1冊のために、私はずっと高千穂遙をこれからさき、うらやみつづけるだろう。
武部さんは逝ってしまわれた。痛恨と、そして哀悼の中で私は思っている。それでも、私と武部さんは、この世では相まみえるご縁もなかったけれども、それでも、それは他生の浅からぬえにしであったのだ――と。なぜなら、武部さんこそは、鏡明さん、野田昌宏さんに先んじて、私にSFへの扉を開いて下さった最初の人であったのだから。