竹書房文庫『ジョン・カーター』解説より
Apr.2012
年季の入ったSF映画ファンの間で、それは事件に等しかった。とうとう、あのエドガー・ライス・バローズの壮大なスペースオペラ“火星シリーズ”第一作「火星のプリンセス」をべースに、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズが『ジョン・カーター』として実写映画化するというのだから。しかもメガホンを執るのは、ピクサー・スタジオを牽引するアンドリュー・スタントン。『トイ・ストーリー』シリーズの原案・脚本を手掛け、『ファインディング・ニモ』『ウォーリー』の監督として二度のアカデミー賞長編アニメーション映画賞に輝く稀代のヒットメーカーが、アニメではなく初めて実写に挑むという意外性もまた、期持を募らせる大きな要因となった。
とはいえ、若い読者の皆さんへはまず、原作小説の偉大さについて少々説明が必要になるだろう。なにしろ、本シリーズが米国のパルプマガジンに連載され始めたのは、今からちょうど一〇〇年前、一九一二年のこと。それは、秘境冒険譚「ターザン」シリーズの原作者としても著名なバローズが、宇宙へと視野を拡げた夢とロマンあふれるSFアクション・アドべンチャーだった。
生命が存在する可能性が高いと言われてきた火星(バルスーム) へ、突如として地球から瞬間移勤し、驚外的な跳躍能力を備えた主人公ジョン・カーターが大活劇を繰り広げ、絶世の美女の危機を救うというストーリーは、二〇世紀ポップ・カルチャーに計り知れない影響を及ぼしてきた。この一〇〇年の間に「火星のプリンセス」の世界観やプロット、キャラクターは数多くの作品にインスピレーションを与えている。その影響下から逃れようとすることの方が、いまや困難だといえるかもしれない。
例えば、アメリカン・コミックスの原点となり、TVシリーズ版や劇場版でも知られるスーパーヒーローの金字塔『スーパーマン』。異星からやってきた主人公が、その環境の差異によってもたらされた驚くべき能力を存分に活かし、地球人のために戦うという設定は、「火星のプリンセス」の裏返しといえる。
また、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズは、銀河を舞台にさまざまな異形の生物が入り乱れ、熾烈なバトルが展開する世界を描くことで、バローズ風ファンタジーの正統な継承者であることを高らかに宣言している。ジェームズ・キャメロンの『アバター』は、異星の環境を克明に描くことに加え、身体を地球に置いたまま意識を別の惑星へ飛ばすというSF的設定の信憑性を追求することによって、バローズ作品の現代的なり・イマジンであることを強く主張していると言っていいだろう。映像技術の分野においても、画期的な変革を成し遂げた二つのSFファンタジー映画は、いずれもバローズの豊穣なイマジネーションに端を発していたのだ。
一九六五年生まれのアンドリュー・スタントンは、一〇歳でコミック版「火星のプリンセス」に出会い、それから小説版を読んで、当時すでに映画化を夢想したというツワモノである。ルーカスやキャメロンとは異なり、原作そのものに向き合うことになったスタントンは、アプローチの仕方について次のように語っている。
「原作における未来のテクノロジーや幻想的な要素は、どれも一九一二年当時の人々の視点が反映されたものです。つまり、登場人物の魅力や面白さのひとつは、それが現代のものではなく、南北戦争終戦期のものであることです。地球上にだけではなく、火星にもそうしたテイストを加えることで独自のカテゴリーを生みだし、最近のSF映画やファンタジー映画とは、比べようにも比べられないものにしようと考えました」
これまで「火星のプリンセス」の影響下にあった作品群は、バローズの想像力に触発されることでさらなる空想の翼を広げ、その時代ならではのリアリティを獲得して歴史に刻まれてきた。しかしスタントンは、あえて原作が描かれた当時の現実や価値観に立脚し、物語の構造を解明した上で、ディテールを掘り下げていくことに力点を置いたのだろう。
瞬時に移動した場所で、気がつけば驚くべき力が備わっていたという設定は、実に魅力的である。そんな主人公の主観で世界を捉え直してみれば、見知らぬ土地に放り込まれ、アウトサイダーとして迫害を受ける者が、自ら望んだわけでもない能力の目覚めに戸惑いながら、その大いなる力を何のために使うのかと選択を迫られるストーリーだ。
大切なのは、南北戦争で疲弊し、心に傷を負っていた主人公が到達した未知のコミュニティが、やはり内戦に明け暮れているという共通性である。エキゾチックかつファンタスティックな夢物語の核心にあるもの。それは、現実を修復するために、別世界で生き直すチャンスを与えられ、今度こそは気力を振り絞って悔いなき選択をする主人公の物語だ。スタントンは、ファンタジーの原点に立ち返ろうとしたのではないだろうか。
共同で脚色にあたったのは、アンドリュー・スタントンの他に、今夏公開のピクサー・アニメ『メリダとおそろしの森』の監督を務めるマーク・アンドリュースと、『スパイダーマン2』の原案などを手掛けてきたピューリッツァ賞受賞作家のマイケル・シェイボン。アンドリュースは、原作と映画の違いをこう語る。
「バローズは、プロットの組み立て方が非常に巧みでした。月刊誌に連載された“火星シリーズ”は、基本的に十二章構成になっているのですが、いずれもラストはクリフハンガー(絶体絶命のシーンで物語が中断して次回へ続く形式)になっています。その形式に従えば、映画としては収拾がつかないので、エピソードからエピソードヘと話が移っていくゴールをいくつか用意し、全休としても楽しめる内容にすることが必要でした。原作にあるたくさんのアイデアをシンプルにしていくことで、バローズのイマジネーションの神髄を獲得することができました」
シリーズ第一作「火星のプリンセス」からの改変として最も大きいのは、シリーズ第三作「火星の大元帥カーター」などに登場するマタイ・シャンというキャラクターを、映画を貫通する悪として登場させたことだろう。『ジョン・カーター』におけるマタイ・シャンは、心の奥底に眠る欲望を助長し、スーパーナチュラルな能力を操って、異なる部族同士の対立を助長するサーン族のリーダーである。その存在は、世界を破滅へと導く無慈悲な絶対悪として、ストーリーを明解なものにしている。
三人の脚本家たちは、作品テーマを「分離」であると捉えた。世界の分離のみならず、それは引き裂かれるかのような思いを意味する。つまり、バルスームで与えられた能力を最大限に発揮し、愛する者のために戦うべきか否かと自問するジョン・カーターの葛藤。ヘリウムの民を救うため、政略結婚を受け入れるべきかどうかと揺れ動く王女デジャー・ソリスの迷い。古き囚習を守り通すべきか、今こそ変革に挑むべきかという狭間で苦悩する為政者タルス・タルカスの選択。原作から一〇〇年目、『スター・ウォーズ』や『アバター』というバローズの申し子たちの後発作品として送り出される本家本元、『ジョン・カーター』にスタントンが込めた同時代性は、実に普遍性に満ちたものだった。
折しも二〇一二年の映画界は、アカデミー賞をめぐって、映画というメディアのルーツを再発見するという興味深い現象が生まれた。トーキー映画へと移行する一九二〇年代のハリウッドを舞台としたモノクロ・サイレントのフランス映画『アーティスト』と、一九三〇年代のパリを舞台に特撮ファンタジーの始祖ヘオマージュを捧げるアメリカ映画『ヒューゴの不思議な発明』が競い合い、受賞を分け合ったのだ。デジタル技術の進展、3Dの進化、映画鑑賞スタイルの変容。混迷する時代にあって「原点回帰」というキーワードは決して偶然ではないだろう。3DCGアニメーションの地平を切り拓いてきたピクサーのスタッフたちが、エドガー・ライス・バローズの生んだ遺産の実写化に挑むという事変もまた、その流れを象徴するものになるに違いない。エンターテインメントとは何か、ヒーローとは何か、と改めて問い直す『ジョン・カーター』の冒険を、本書のみならず、ぜひ劇場でも休験していただきたい。
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竹書房版の映画『ジョン・カーター』ノベライズ本の解説です。軸足は映画解説ですが、映画製作者側が火星シリーズを読み込んでいて、そこからのでんぶんを柱に構成された解説だ、ということもあると思われますが、原作に触れた部分は間違っていないので、ERBファンとしては受け入れやすく、映画解説部分もわかりやすいかもしれません。
これで、映画が大ヒットしてくれていればねえ、というのは、言わぬが花ですかね。