我々、大衆は常に『ヒーロー』を待っています。このことについて、疑問を感じる人はあまりいないでしょう。大衆娯楽に限って言えば、これはいまさら持ち出すべくもない、当然過ぎる『事実』であり、大衆娯楽の歴史は『ヒーロー』の歴史とさえ言えるはずです。かつて、人々はその時代に則した『ヒーロー』を求め、今、我々も、新たな『ヒーロー』を求めています。そして何より、我々は時代を越えた『ヒーロー』を求め続けているのです。
しかし、我々が求め、待っている『ヒーローの条件』というと、いったい何でしょう? 勇敢である事? 肉体的に強い事? 賢い事? 弾圧や危険に屈しない事? それとも、正義を行える事?
勇敢である事や、肉体的、頭脳的に優れているというだけで『ヒーロー』になり得た人物はいません。それらはあくまで、表面的な1要素に過ぎず、場合によっては『ヒーロー』以外の脇役に、その要素が与えられてしまう事が少なくありません。だとすると、危険や悪に屈せず、正義を行える事が条件でしょうか。
表面的な要素ではなく、社会、すなわち構造に対する、本質的な姿勢にこそ、我々は『ヒーロー』性を感じるのかもしれません。そう考えると、悪に屈せず、正義を行える者は、確かに『ヒーロー』です。しかし、正義というものは、いつの場合にも正しいのでしょうか。いや、そもそも正義とは、誰にとってのもので、どう定義すればいいものなのか、という問題が持ち上がってきます。法に沿うものが正しく、法を犯すものが悪と、言い切れるのでしょうか?
『何が正しくて、何が間違っているのか』
おそらく、ヒーローも含め、我々人間が常に悩む問題がそこにあります。しかし、誤解をおそれずに言えば、正義という言葉には、ほとんど何の意味もないと言えます。なぜならそれは、その言葉を使う者にとってのみしか、意味をなさない場合が多いからです。正義と悪との境界線は、複雑になった現代の社会構造においては、ますます曖昧なものとなっており、言葉だけならテロリズムまで正義なのです。
では正義というものが、曖昧なものならば、『ヒーロー』は何を行えばいいのでしょう。『ヒーロー』は何をもって『ヒーロー』たりえ、我々は『ヒーロー』に、何を行ってほしいのでしょう。
アメリカ娯楽史上最大級の『ヒーロー』の登場譚である、『類猿人ターザン』を読み終えた時、ひどく複雑な気持ちになった事を、僕は覚えています。押さえ切れない感傷を感じつつ、同時に、高ぶった感情は、誇らしさを伴い、この物語について来て良かった! と深く感じました。この物語を駆け抜けた主人公に対して、ほとんど“信頼”ともいえる感情を抱き、同時に僕の中で殿堂入りしている『ヒーロー』たちの隣に、悠然と『ターザン』は降り立ったのです。
おそらく作者バロウズが、読者に抱かせようとした感情は、僕が抱いているこの感情そのものだったと、僕は思います。バロウズが『美徳』として主人公に与えたと“要素”に対して、僕は“共感”したのです。いかなる言語で訳されようと、世界中の人々が、この“要素”に対して、また、いつの時代の人々も、この“要素”に対して同じような“共感”を抱くでしょう。それは、翻訳されている結果を見れば、明らかな事実です。
結果としてみれば、間違いなく『ターザン』は『ヒーロー』でした。『ターザン』は、物語の起伏の面白さだけではない、時代を超えて共感を呼べる、普遍的な『ヒーロー』としての正しい『条件』を備えていたのです。
しかし、ここで初めて僕は『ヒーロー』の存在というものに疑問を抱きました。
『なぜ、こんな野生児が僕にとってヒーローたりえたのか?』
『自分は彼の、どこをヒーローとして認めたのだろう?』
『一体バロウズが、主人公に与えた、何の“要素”に対して自分は共感したのか?』
『何が、彼を普遍的だと、思わしめたのだろう?』
それが、冒頭の疑問『ヒーローの条件』であり、僕が『ターザン』について考え直すきっかけでした。
小説家ロバート・B・パーカーは、その博士論文のなかで『ヒーローが孤立しながらも守らなければならないもの』を、『自らが正しいと信じる生き方』としています。くわえて『ヒーロー』が信奉するのは『究極の伝統的価値観』としています。つまり『ヒーロー』の行動は、『究極の伝統的価値観』がその根底にあればこそ、と言っているのです。
『究極的な伝統的価値観』
ウィリアム・フォクナーはそれを『昔からの普遍的な真実、すなわち、愛、名誉、憐憫、誇り、共感、犠牲』と呼び、パーカーはそれに“勇気”をくわえてもいいとしています。さて、昔からの普遍的な真実を『ヒーローの条件』として、『ターザン』について、当てはめ、もう一度、彼に思いをめぐらせてみると。
『ターザン』は、決して大義名分の為には動きませんでした。
『ターザン』は、非情であり、かつロマンチストでした。
奇抜な設定が、『ターザン』という人間を演出しているのも事実ですが、その設定だけでは、『ターザン』という人間の本質まで表現してはいません。
最後に『ターザン』は、作者バロウズによって苛酷な選択を迫られ、そこでひとつの答えを出しました。その試練とは、冒頭で上げた、表面的な1要素があるくらいでは、乗り越えられない、人間として本質的な試練です。人間として本質的である、とする理由は、その選択が、自己保存本能などとは無関係な、自分をとりまく世界に対して、どういった姿勢で位置していくのか、という選択だからです。
人間『ターザン』を、結実させているのは、間違いなくラストシーンにおける、彼の判断であり、それを伝える最後の台詞でした。
『ターザン』は、ある意味では全てを得た幸せな人間として描かれました。『ターザン』は、愛するジェーンの為にかつての生活を捨て、海や大陸を越えてきました。愛する者の望みどおりになる事を約束し、それを実際に行うだけの力がある事も証明しています。
『きみはぼくを愛していることを認めた。ぼくがきみを愛していることはきみも知っている。きみを支配している社会の道徳については、ぼくは知らないけれども、きみがそうすれば幸福になれるのかは、きみ自身がいちばんよく知っているのだから、ぼくは君に決断を任せる。』とさえ言っているのです。
にもかかわらず、彼は、愛する者にとっての幸せだけを願い、すべてを自分が手に入れられるにもかかわらず、自らの胸にのこる愛する者との思い出だけを、選んだのです。
最後の台詞に至った根底には、間違いなく『普遍的な真実』すなわち、愛、名誉、憐憫、誇り、共感、犠牲、そして勇気が横たわっています。人間『ターザン』を完成させたあの場面で、そう選択できた『精神』こそ、バロウズは理想的な行為、すなわち、『ヒーローの条件』としたのではないでしょうか。物質的、また社会的な充足が、人間の心を豊かにする事はなく、幸福とは無関係であると、作者バロウズは言っているのです。
我々人間は、弱く、意志を貫くことはなかなかできません。しかし、我々は、哀しいことに本質的な正義を知っているのです。苦しむ人々がいれば迷わず手を差し伸べ、打算なく自分が『間違っている』と判断した事に挑める意志を持ち、そして愛する者を想う気持ちは、自らが生きようとする本能よりも深い。それは世界にとっても『普遍的な真実』であり、人種や、文化を越え、正義として成立する事を、我々は知っているのに、我々はその心の弱さゆえに実行できないのです。
バロウズは、そうした弱い我々に、ひとつの理想を提示してくれました。バロウズが『ヒーローの条件』として組み上げた『ターザン』の中に、我々は人間としての理想をみるはずです。少年少女は、この物語から、人種や世代を越えた理想を学び取り、その中の幾人かは、わずかでもその理想を実行しようと、理想に近づこうとするに違いありません。それは、伝統の継承であり、脈々と流れ続ける、普遍的な真実の系譜であり、人間の歴史そのものです。
大衆文学という場所に、現れた『ターザン』という名の『ヒーロー』。1世紀近い年月を経ながら、いまなお色あせる事なく、その姿が語り継がれている事に、僕は人間の可能性を感じます。
これから、世の中は、曖昧な正義に満ち、ますます灰色の世界になっていくでしょう。しかし、こういった冒険物語を、本当に愛している人々が絶えないこと。先人が提示した勇気や愛の物語が、原色のまま語り継がれていく事に、ささやかな希望を感じるのです。 我々は、『ヒーロー』を待っています。我々に、人間としての生き方を示してくれる、強い意志を持つ者を待っています。
バロウズの記してくれた理想が、いつまでも語り継がれるように。そしてその理想が、わずかでも形をとり、世界が少しだけ素晴らしい方向に向きますように。