エッセイ Essey for ERB's world


SF作家バローズ

written by Hide

Jan.3,1997


 バローズは単なるSF作家ではない、ということを、いくつかのところで書いている。
 これは、決してSFという文学ジャンルを揶揄するものではない。SFの壮大さ、奥の深さは、ぼくなりにわかっているつもりで、SF作家としてバローズを見た場合、決してその道を極めたとは言い難い――ある時期そのジャンルをリードした、などとはとうていいえない――といった程度の作家であるという評価を下せるほどには、冷静なつもりだ。
 バローズは、ある特定のジャンルの中で語られる作家ではないと言うことを、ぼくは言いたかった。守備範囲としては広義の冒険小説オンリーの作家で、決して器用ではないのだけれど、またある時期SF雑誌を中心に発表の舞台としていて、まずアメリカのSFファンに認められたという事実も確かなのだけれど、やはりもっと大きく、エンターテインメント小説の名手として、ERBを評価したいと、願うのだ。
 それについては、これまでもいろいろ書いてきたし、まだまだ書きたいこと、言いたいことは山のようにあるし、当然のことながらこれからだってことあるごとに書くつもりだから、ここはひとつ視点を変えて、「そうはいってもSF作家であったバローズ」について書いてみるのも一興かと思う。

 バローズは単なるSF作家ではないかもしれないけれど、SF作家のなかのひとりに数えられることは疑いないし、そのことを否定するつもりはない。むしろ、SF作家としても無視できない足跡を残した作家という評価も、まぎれもない事実だ。
 たとえば、『火星の透明人間』に登場するマッド・サイエンティスト、ファル・シヴァスの発明品として登場する人間の脳から作った自動宇宙船のアイディアは、あきらかにバイオ・シップの萌芽であって、これがなければスワンだって歌う船だって生まれてはいなかったかもしれない、実はとんでもないアイディアである。
 バローズによってはじめて人間のイマジネーションは地球の重力の呪縛を断ち切ったのだ、という話もあるが、こちらのほうはどうだろうか。確かに、『火星のプリンセス』以前の宇宙がらみのエンターテインメントSFと言えば、ウェルズ『宇宙戦争』は地球人は侵略されるだけだし、ヴェルヌだって月どまりだし、ツィオルコフスキーの小説は、ロケット原理の解説小説と言った具合で、とうてい「地球外を舞台に地球人が活躍する」とはいえそうにない。
 しかし、それによって『火星のプリンセス』を評価する、というのはどうだろう。E・E・スミスの<スカイラーク>がはじめて太陽系外に人類を羽ばたかせた、というのは、大納得なのだが、<火星シリーズ>のほうは、ジョン・カーターの夢物語ともとれる作りで、精神力で宇宙を飛び、到着したときそこが火星だとわかっていた、というのだから、これは異世界ファンタジーの手法であってSFのそれではない。偶然の要素が大きくても新発明によって光速を超えるロケットを発明してしまった<スカイラーク>のほうはSF以外のジャンルには組み入れようがないのとは、かなり趣をことにする。ローマ神話の軍神マルスと火星を示す単語が同一でなかったなら、おそらくはジョン・カーターとデジャー・ソリスのロマンスは別の世界の物語となっていたであろうと思われるのだ。これでは、スペースオペラの元祖とは、とうていいえない。この程度の宇宙旅行なら、どこかの国のファンタジー作家が先を越していてもおかしくはない。月であれば1,000年以上も前に日本の「竹取物語」が制覇してしまった位なのだから。
<火星シリーズ>のSFとしての評価は4巻以降にゆだねられる。これについては野田昌宏氏が(本名の野田宏一郎名義で、ではあるが)『火星の巨人ジョーグ』の巻末解説において長々と語っているので、ここでは繰り返さない。ただ、バローズの良さを最初に見出し、高く評価したのはアメリカであってもSFファンであったし、常に読者のほうを向いて仕事をするバローズがSFを意識するようになったのは当然のなりゆきであったことは疑いようがない。
 火星のジョン・カーターは精神力で火星にわたったが、地底世界のデヴィッド・イネスは新開発の地底探索機で地底旅行にたち、金星のカースン・ネーピアに至っては宇宙船を建造してしまう。<金星シリーズ>がバローズの作家人生全体で見ても後期に入ってのスタートだったという事情を考えると、この時期にはかなりSFを意識していると判断できる。ペルシダーは火星やターザンと同じ時期のスタートだが、やはりこれも精神異常者の戯言かとも思わせる登場の仕方であって、この時点では機械を使った旅とはいえ、まだまだSF臭は薄い(そうはいってもペルシダーのほうは火星シリーズの冒頭3部作とくらべると、十分にSFしている。まず舞台設定がSF的手法によりなされているからで、このあたり、想像上の異世界の域をでないバルスームとはひと味違う。詳しくは、別に稿を起こす予定なので、ここではこの辺にしておくが)。
 バローズのSF志向がもっとも顕著なシリーズと言えば、『金星の魔法使』に収録された惑星ポロダの連作だろう。これは、ドイツ軍に撃墜されたアメリカ軍の兵士が気がつくと異世界にいたという設定で、ここのところは『火星のプリンセス』の導入部に似ていなくもない。というよりは、このポロダはバルスームに対する鏡像としての位置を、与えられてつくられたと言ってもいいのだろう。バルスームでは、低い重力という要素はあったにせよ、地球人ジョン・カーターは英雄であり、好戦的であり、あらゆる危機に大して無敵であったが、ポロダでのタンゴールは、気弱で厭戦感と厭世観の固まりだが一度死んだので死なないと言うとんでもない理由で不死身の活躍を続けるのだ。20世紀初頭と第2次世界大戦の最中という時代背景の差はもちろんだが、ご都合主義を責め立てられたバローズの開き直りと読めなくもない。『火星のプリンセス』を現代風に書くとこうなってしまうんだよと、バローズは言いたかったのではないか?
 話がそれた。このポロダの連作では、バローズは異世界の創造のための手続きに、ページを割いている。惑星の配列、住民の世界観、星のアルファベット、文法に至るまで、解説的ともいえるほどに語られている。これは、じつは<金星シリーズ>でも用いられた手法をさらに発展させたものだ。異世界をつくるという行為そのものを楽しんでいるわけで、バローズのことだから、読者にそういったニーズがあることを嗅ぎ取って、採用した手法であると考えられる。ヒーローが異世界で活躍する、と言うよりは、架空の異世界に思いを馳せることに主眼をおいているわけで、これは、バローズの初期の作品と比較してみても、より逃避的な傾向だ。
 SFにはふたつの傾向がある。第1は「風刺」。『1984年』などを引き合いに出すまでもなく、早くはウェルズの作品からすでに、SF的な設定、ストーリイにゆだねて社会的な問題、課題に対する意見が、きわめて風刺的に描かれているのを読むことができる。現実の世界とは異なる世界を舞台にするからこそできる、前向きな側面だ。
 第2が「逃避」である。凡百のエンターテインメント性の強い作品が持つ傾向であるといってよいかもしれない。『水戸黄門』でも勧善懲悪のエクスタシーはあるわけで、SFだけの傾向ではないのだけれども、男はあくまで強く、女は美しく、めくるめく冒険のあとには地位と美女とが約束されているエンターテインメントSFの世界は、その現実離れの度合いからいっても、もっとも逃避性の強い作品群であるということは、いえるだろう。
 したがって、SFの読者は作品に、現実世界を別の視点から見てその問題点を浮き彫りにする「風刺」と、現実の問題に背を向けて異世界の夢物語に酔う「逃避」の、一見矛盾する2面を求めることになる。
<金星シリーズ>もバローズ晩年の作品だから、後期のバローズがこれらの傾向を重視した、すなわちSFファンに読まれることを念頭に置いた作品づくりをおこなったのはまちがいないように思う。あらためていうと、<金星シリーズ>は先にいった「逃避」の側面のほかに、バローズとしては異例ともいえる社会問題に対する挑戦が明確に現れた作品群である。
 長くなり、また本来の主題からもずれてきた。バローズは実は自覚的なSF作家だったのだと言うことを言いたかったわけなのだが。
 さて、バローズの書いたSFの最高峰といえば「太古世界」「月」の両3部作にとどめを刺すだろう。具体的な内容はそれぞれの「著作リスト」でのあらすじなりコメントなりを読んでもらいたいが、「太古世界」はその基本アイデアのすばらしさ、「月」はその奇抜な構成と社会性、世界観の高さで評価される。後世に残るのは「太古世界」のほうだろうが、小説としては「月」の完成度はすばらしい。バローズの遺した傑作といってもよいだろう。
 バローズは、SF作家としても自覚が強く、また作品的にもすぐれたものを残していたと言うことを繰り返して、長くなってしまった本稿に、とりあえずのエンドマークをつけておきたい。

END


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