11 Sep,1997
金星シリーズの第1作『金星の海賊』が発表されたのは1932年の9月であった。1912年に作家としてデビューし、開戦(1941年)とともに筆を置いた(実際には半ば趣味的に書き続けてはいたのだが)バローズは、このころすでにターザン・シリーズは19作、火星シリーズは7作、地底世界シリーズも4作までを発表していた。その後の発表作は(死後発見されたものをのぞけば)すべてこれらのシリーズの続巻であることを思えば、それ以降の作家としてのバローズはよく言えば円熟期、悪くいえば盛りを過ぎた名ばかりの大家となり果てていくことになる、そんな時期でもある。だからこの金星シリーズは、バローズにとっては最後の意欲作ということになるわけで、注目度もまた特殊な色合いを持つことになる。
金星シリーズ開始の動機として、火星を舞台に幻想物語を紡ぎだしていたバローズが凡百の類型剽窃作家たちの無礼さにしびれを切らし……とも伝えられるが、人気作家であり大家であったバローズがそんなことを気にしていたとは考えにくい。本格的年代記SFとして書いた月シリーズのように、彼自身の新たなチャレンジとして、この新シリーズは生まれたのだと考える方が自然だろう。
さて金星シリーズの主人公であるカースン・ネーピアは何ともヒーロー性に乏しいキャラクターである。英国貴族として生まれ類猿人の王からジャングルの王者となったターザン、火星の赤色人帝国のプリンスであり火星の大元帥ともなったジョン・カーター、ペルシダーの覇者マハールを駆逐して皇帝を名乗ったデヴィッド・イネスらと比較すると、プリンセスであるドゥーアーレーと結ばれるとはいうものの簡単にはいかず放浪を続けたカースン・ネーピアは、みずからの才知や剛腕で運命を切り開いていった先輩ヒーローと比較するとどうも他力本願というか巻き込まれ型であることが目に付くのである。
つまり、ここに描かれているのは単純な英雄小説ではない、ということだ。換言すれば、バローズの描きたかったものは異世界における英雄の活躍ではなかった。そのような作品であれば、既存のシリーズでいくらでもかける。というより、既存のシリーズではそういったものしか書けなかったというのが正しいだろう。だから何か新しいものを書きたいと思ったら既存のシリーズを離れるしかなかったし、新シリーズの開幕はすなわちバローズの新たな挑戦を意味することにもなる。
繰り返すが、カースン・ネーピアは巻き込まれ型のヒーローとして活躍した。これは、ターザンやジョン・カーターのように自分の腕一本でライオンや緑色人を倒していった古典的英雄ではなく、捕虜として捕らえられた船の中で反乱軍を組織してそのリーダーとして戦う、といった近代的ヒーローであることを意味する。つまり、革命を必要とするような世界でその中心的な位置に近づいたとき初めて本領を発揮するタイプだということだ。逆説的にいえば、このようなタイプのヒーローを活躍させるためには、そういった複雑な人間社会を創造しなければならないということになってくる。そこにこそ、バローズがこのシリーズで表現したかったものがあったといえるだろう。
時はあたかも最初の世界大戦(欧州大戦といった方が正しいと思うが)からバローズ自身も巻き込まれる太平洋戦争へと至る時代である。戦争好きのバローズにとっては夢のような時代でもあり、国際情勢を必死で追いかけたであろうことは想像に難くない。アカ嫌いでドイツ嫌いのバローズがこのシリーズで描いたのは社会主義体制批判であり、独裁制批判であった。その単純きわまりない世界観、正義感には現代日本の常識から見ればちょっと鼻につく感もあるが、時代を考えればやむを得ないところなのだろう。
同時に、ここに登場するのは火星などと比較すると遙かに理性的で地球人的で科学的な人物像である。火星シリーズでは曖昧だった不老不死は科学的に達成される。カースン・ネーピアの優位性は金星外人であることによる天文学に関する知識によって理性的に判断される。当然、多少の剣の技量は地位向上には役をなさない。きわめて現実的でさえある異世界である。
これは、残念ながらバローズが理想とした原始社会とは著しく異なるものだった。自身の主張はともかくとして、これでは大衆小説の体をなさない。夢がないのだ。その限界に気づいたバローズはこの種の社会批判は第3巻で切り上げ、アメーバ人間等の典型的な怪物を第4巻に登場させるわけだが、やはりヒーロー像の違いはいかんともしがたかったと見える。
金星シリーズは、バローズの作品中では最低水準の人気にとどまることになった。「おもしろさ」を追求できなかったのが最大の要因だろう。時代を描こうとしたのだが、時代の要請に応えたものではなかった。時代そのものが老齢に達したバローズとずれてきてしまっていたのかもしれない。これではいけない。
かくして金星シリーズはバローズの不人気作としてその幕を閉じるのだが、その後の(日本での)評価は意外と高いものになった。火星シリーズと同時並行して紹介されたことも大きいだろうが、60年代終盤から70年代という翻訳紹介された年代がよかったともいえるだろう。安保闘争や学生運動など、社会の目は体制に向き、体制批判すなわち大衆の正義だった時代。これは、戦争のさなかに夢を失いつつあった時代とはまた違ったニーズがあった時代だった。
金星シリーズは、だからいまよんでも大したことはないが、翻訳紹介された時代ならば高い評価を受けただろうことは、容易に想像できるのである。
END