3 May,1998
〈ポロダ・シリーズ〉といってわからなければ、「さい果ての星のかなたへ」という作品をご存じだろうか? このHPを見てくださっている方々ならばタイトルくらいは覚えているのではないか、とは思うのだが。日本では〈金星シリーズ〉の第5巻として出版された『金星の魔法使』(実は金星シリーズは1編だけ収録の短編集)に収録されている2編からなる連作シリーズで、バローズの連作ものとしては(というか作品としても)最晩年のものにあたり、バローズの創造した異世界としては唯一、太陽系外に舞台をおいている作品という点でも特徴的である。
執筆年代は1940年代。このころ、バローズは従軍記者として事実上の絶筆状態にあり、わずかに発表された中に第1作「さい果ての星のかなたへ」があり、死後発見された未発表原稿の中に第2作「タンゴール再登場」があった。まぎれもないERB最後の作品群の重要な一角である。
先に、〈火星シリーズ〉こそバローズの原点である、と書いた。売れないときに自らを慰めるために書いた願望充足ファンタジーこそが『火星のプリンセス』であると。しかし作家としての成功を収めたのちのバローズの目からは、この処女作は不十分なものに見えたのではないか? と、私は邪推している。技術的にも未熟で、勢いだけで書きとばした感のあるこれらの初期作品群は、現代の視点から見るとバローズがもっとも魅力にあふれ、優れた作品群を残した時期のものだと映るが、当時はそうでもなかったのではないかと思うからだ。その根拠のひとつは、バローズの作風の変化であり、もう一つはこの『金星の魔法使』の存在だ。
火星シリーズは中盤以降、SF的なタームが頻出する。見えない飛行艇や宇宙船、人造人間など。人造人間のアイディアは『フランケンシュタイン』にはじまってSFやホラーの分野では一般的なものだし、バローズ自身も『モンスター・マン』(創元版では『モンスター13号』)で初期に作品化していてなじみもあったわけで、それを繰り返し使ったのは、あきらかにSFの香りを持ち込みたかったからに他ならない。それも、出来るだけ安易に。
バローズは優れたSFのセンスの持ち主だと私は評価しているのだが、彼が創作を開始した頃はSFはまだ文学ジャンルとして確立しておらず、作品の傾向にも偏りがあった。それゆえにウェルズやヴェルヌ、ドイルらの明らかな影響は受けつつも、創作手法としてエンターテインメント志向のバローズがお手本にしたのはハガードやメリットだった。ここで書かれた『火星のプリンセス』が異世界ファンタジーの香りを漂わせ、魔法色の濃いものになったのはそういった経緯に依るものと考えられる。
しかし、バローズは明るく、合理主義のアメリカ人だった。ファンタジーは性に合わない。だから〈地底世界シリーズ〉では同じような筋立てでよりSF的な、非魔法・非幻想的な物語を執筆した。以降も、バローズの作品からは幻想色の排除とSF色の導入が繰り返しおこなわれた。バローズ作品のファンはアメリカ人であり、なかでもSFファンだった、ということも大きいだろう。エンターテインメント作家の使命は読者が喜ぶ作品を提供することにあるからだ。
そうなってくると、『火星のプリンセス』が特異な存在として浮かび上がってきてしまう。ここで、バローズは1940年代にいたってその再話を試みた。それこそがこの〈惑星ポロダシリーズ〉ではないか、と思うのだ。
主人公タンゴールは第2次大戦の連合国側のパイロットだったが、ドイツ軍に撃ち落とされ、きりもみしながら墜落する。と、かれは異星に移行していた。一糸まとわぬ裸である。このあたりは一緒。この世界の人間は裸同然の体に密着した服を着ていた。裸同然、という点ではバルスームも同様である。そこは優れた科学技術がありながら戦争に明け暮れる世界で……で、タンゴールはこの世界で活躍するわけだ。
違う点は、御都合主義の排除にある。この点ではバローズは徹底して批判されたのだろう。主人公はなぜ絶対に死なないのか? 答え。すでに一度死んでいるから。これは、いい回答だ。あげあし取りの好きなシニカルな読者の意表をついた回答だった。
太陽系のあらゆる惑星に人が住んでいることの科学的問題については? 異星に舞台をおいたことだけでも回答になっただろうが、バローズは太陽からの同一距離にあって軌道を共有する惑星系を考案した。これならにたような条件ではないか? さらにアルファベット等も考案したが、これはやり過ぎだったか。ともかく英語と同じ文字数、文法の言語しか認めないというのは、アメリカ人らしすぎる。
戦争を肯定しすぎである、という点について? バローズ自身の加齢もあるだろうが、社会情勢、体制が帝国主義から平和民主自主独立へと変化しつつある中、時代を受け入れてシニカルな視点を持ち込んでいる。厭戦感が漂うのだ。戦争で手柄を上げたからといって一国の王になったりするような時代はとうに過ぎていた。場合によっては人殺しと揶揄されるのだ。
そして最大の相違点は――プリンセスが登場しないこと。民主主義に王族は必要ないということもあるだろうが、明らかに古く都合よすぎる概念である「玉の輿」をバローズは捨てていた。主人公もいきなり惑星一の剣士にはならない。また、連れ合いも、高嶺の花を射止めるよりも、身近にいる同水準の女性が結局のところもっとも好ましいのだという現実主義。
この、新しい時代の『火星のプリンセス』はついに完結することなく、バローズは息絶えた。惜しい思いと同時に、夢を奪われなかったことにホッとしているのも、実は私の本音であったりもする。
さて、こういったバローズの変化と挑戦を象徴する作品は他にもある。同じ『金星の魔法使』に収録されている表題作である。ここでもバローズはそれまでの自らの作品では避けて通ってきたある手法を使っている。詳細はいずれ書くつもりだが、どちらかといえばこちらの方は、惜しむ思いの方が強い。この手法をバローズがもっと早く駆使してくれていたら! おそらく、バローズは戦後も第一線の作家として生き残り得たに違いないのだ。