19 Jul.1998
『失われた大陸』という薄めの長編がある。解説込みで180ページだから、通常の長編の半分程度の長さだろうか。アメリカで出版された際は最初にパンフレット形式で出たあと、『ザ・マン・イーター』というもうひとつ別の(同程度の長さの)ジャングルものの作品とセットで単行本化されている。ただし、後にペーパーバック化される際、ふたたび単独で収録された。それが訳書の下本となっている
この出版履歴を見てもわかるように、パンフレット形式で出るまで、この作品は長く幻の作品だった。〈オール・アラウンド・マガジン〉1916年2月号に掲載されているから、バローズとしては初期の脂ののった時期の作品ではあるのだが、にもかかわらず「幻」になるからには理由があるわけで、この作品の最大の特徴はヒーロー・ストーリイではないことにある。
最大の要因はその長さ、もとい、短さにあると言っていいだろう。この頃のバローズが得意とした、主人公が次から次に敵やアクシデントや事件に巻き込まれていく、いわゆる「ゴッタ煮」といわれるエピソードの連続を使うには、短すぎるのである。とくに後半は、主人公をヒロインに再会させ、母国に帰すための手続きに追われている感がぬぐえない。ヒーローを活躍させてしまっては紙葉を費やしてしまうので、主人公は無個性な流されるタイプにならざるを得なかった。成り行き任せではヒーローとは呼べない。バローズ好みのヒーローでないのはもちろん、読者にも支持されなかったのだろう。長く「幻」だった本作はバローズ・リバイバル・ブームに先立つ1955年にファンタジー・プレス社の社主であり熱心なファンでもあったロイド・アーサー・エシュバッハによってわずか300部のパンフレット版で出版され、2年後には先述の組み合わせでバローズ・マニアであったブラドフォード・M・デイの尽力によりSF&Fパブリケーションズ社より出版のハードカバーとなった。ちなみにこれらの出版は著作権者の許可を得てはいなかった。これはバローズ・リバイバルに先立つ著作権消失期のエピ
ソードのひとつとして語り伝えられるもので、観測気球的な出版だったのだが、このことを長々と述べるのは本稿の意図に反するのでこれくらいにしておく。とまれ、バローズの存命中は出版社はもちろん作者本人も黙殺した作品であったということがこの事実から言えるわけである。
このことは、しかし本作の価値を低くするものではない。もちろん、バローズの作品として、エンターテインメントとしての評価は低めにならざるを得ない。これは少なくとも当時のバローズ本人や彼を取り巻く読者、編集者、出版社からは決定的な事実であり、結果として作品が埋没してしまったわけだが、その後の視点で見てみると、本作においてバローズが試みた実験は注目に値するといわざるを得ない。本稿ではその点を追ってみたい。
『失われた大陸』(原題『30度線の彼方』)は時代背景を22世紀の分断された地球においている。この点が、まずバローズとしては異色である。他に未来を舞台にした作品というと、SF的な評価の高い〈月シリーズ〉くらいしか思い当たらない。他の異世界を舞台にした作品も時代不詳的ではあるが、執筆当時のアメリカを発端としており、そうした点で本作におけるバローズの実験的取り組みは紛れもなく意図的なものであると推察される。
『30度線の彼方』という原題が示すように、この作品は戦争によって分断された地球で、すでに戦争時代を記憶する人もいなくなった遠未来に、平和裏に発展した新大陸(アメリカ)人の視点から西経30度線の彼方、すなわちヨーロッパをはじめとする旧大陸を見た記録となっている。この作品が書かれた1915年は第1次世界大戦が開戦された翌年であり、戦火はまだまだ拡大し続けていた頃である。バローズの経歴からすれば明らかに戦争好きな一面が見て取れるので、このような反戦的ともとれる作品の存在は意外でもあるが(実際、戦争終結前後に書かれた『野獣王ターザン』では露骨な反ドイツ感がふりまかれている)、バローズ自身、アメリカ的正義感の塊ではあったが一方で少数民族を支持擁護(時にはその野生に対する崇拝賛美)する思想の持ち主で、帝国主義の対極をいく民族自決論者だったから、そう思ってみれば当然の展開なのかもしれない。
もちろん、皮肉な視点もある。アメリカ白人の直接の先祖であるヨーロッパ人、中でもイギリス人が野蛮人同様の生活を送り、なぜか大量発生した虎やライオンから逃げ回っているなど、新大陸をさげすんでいた(と思われる)旧大陸人に対する仕返し的なエピソードがそれである。ヨーロッパ・アフリカはエチオピア系の黒人に、アジアは中国系の黄色人種に支配されたという設定なので比較してヨーロッパの白人の地位がおとしめられるのはしょうがないのだが、〈ターザン・シリーズ〉などであからさまなイギリス貴族崇拝を見せていることからするとやはり意外な感があるかもしれない。これは、先住民の利益を一方的に踏みにじる、植民地をめぐっての無駄な流血にそれこそ血道をあけていたヨーロッパに対するバローズの批判的精神の発露である、とするのが妥当なところだろう。
こうしてみていくと、バローズの未来観・戦争観がしだいに見えてくる。バローズは勇ましいことが好きで好戦的な性格はあるかもしれないが、決して戦争好きではない。むしろ、理のない戦争は積極的に批判する精神の持ち主だ、ということだ。また、民族自立・民族自決の思想を持っており、帝国主義的世界支配には反対の立場でもある。これは、当時の白人の思想としては珍しいが、先進的なものだったといわなければならないだろう。ご存じのように、第2次大戦後は民族自立が世界の趨勢となり、植民地の独立が次々とおこなわれていったからだ。バローズの思想は半世紀近く、時代をリードしていたのである。
一方で好戦的といわれる点だが、これは国家観の戦争というよりは個人の精神のありように対する感覚といってよいのではないだろうか。帝国主義のイギリスは批判するが、英国騎士道精神は崇拝するのである。1対1で剣技を競う〈火星シリーズ〉の世界はまさしくそれであり、ターザンはそうした英国貴族の血を引いた存在として描かれたのだ。野生の世界に文明の利器を持ち込んで覇者となったデヴィッド・イネスは初2巻のあと退場させられたのもバローズが自らの思想を自覚する課程のエピソードと推察できる。
さらに、本書には無視できない点が潜んでいる。舞台を未来においたという点であり、これと共通する視点が導入された作品はあとにも先にも〈月シリーズ〉しかないという点だ。〈月シリーズ〉はいわずとしれたバローズSFの最高傑作にして到達点(一般の評価は決して高くはなかったし、だから同種の作品はこのあと、書かれることはなかったわけだが)。バローズがこの〈月シリーズ〉を世に出すために費やした労力は並ではなかった。まさしく意欲作だったのだ。つまり、本作品は〈月シリーズ〉のプレ作品、実験台だったと考えられるのだ。そう考えると、本作の出版にバローズがこだわらなかった理由も説明が付く。
こういう風に見ていくと、バローズという作家が一般に思われているよりもずっと思想的で、先進的な作家だったのだということがわかってくる。もちろん、バローズの魅力はそういった理屈抜きに楽しめる点にあるわけだが、読み込んでいくうちに別の楽しみも味わえるという点で、味のある作家だなあと思うわけである。
end