ゲスト・エッセイ Guest Essey for ERB's world


バローズはSF作家か?

〜本格的バローズ諭のための試論〜

by 高井信


1 バローズの生涯

 アメリカの大衆小説作家エドガー・ライス・バローズは、1875年9月1日、四人兄弟の末っ子としてシカゴに生まれた。
 南北戦争の際、南軍の陸軍少佐として活躍した父親の影響か、バローズも幼いころから軍人を志望していたが、残念ながらそれは果たされず、とりあえず父の会社で働くこととなる。
 バローズはなかなか定職を得ることができなかった。1900年、10年ごしの恋人エマと結婚し、二男一女をもうけてからも、セールスマン、カウボーイ、鉄道公安官、鉱山師などの職を転々とし、苦しい生活を強いられる。
 だが結果的には、さまざまな分野の仕事に手を染めたことによって、自らの作品にその知識を盛りこむことができたのだから、多くの仕事を経験したことは決して無駄ではなかったと言える。たとえば〈火星シリーズ〉冒頭で、ジョン・カーターは友人とともに金鉱を求めてアリゾナを徘徊するし、〈ペルシダー・シリーズ〉の主人公デヴィッド・イネスは若き鉱山主である。これらは鉱山師としての経験が大きくものを言っているに違いない。
 1911年、バローズにとって大きな転換期が訪れる。
 広告の仕事の関係で手にしたパルプ雑誌の冒険小説を読んでいたバローズは、自分ならもっと面白い作品が書けるという確信を抱いた。そして、2ヵ月足らずで書き上げたのが"Dejah Thoris, Martian Princess"である。
 さっそく「オール・ストーリー」誌に送ったところ、幸運にも編集のT・N・メトカーフに気に入られ、二倍近くも加筆するという大幅改稿の上、翌年の「オール・ストーリー」誌2月号から7月号に渡って、"Under the Moons of Mars"というタイトルで連載されることになった。(このときバローズはノーマル・ビーンというペンネームを用いたが、誤植でノーマン・ビーンになっていたというのは有名すぎるエピソードだ)
 この作品は、のちに1917年、単行本化されるにあたって、"A Princess of Mars"と改題された。――〈火星シリーズ〉の第一巻『火星のプリンセス』である。
 よく誤解されるのだが、"Under the Moons of Mars"と"A Princess of Mars"は全く同じ作品である。早川書房版〈世界SF全集〉第31巻『世界のSF(短篇集)古典篇』のなかに『火星の月のもとで』(関口幸男訳)というタイトルの作品が収録されており、そのことが誤解(つまり、『火星の月のもとで』は「オール・ストーリー」誌に連載された、"Under the Moons of Mars"を翻訳したもので、"A Princess of Mars"はその"Under the Moons of Mars"を長編化したもの)の原因と思われるが、この『火星の月のもとで』は単なる部分抽出訳(創元推理文庫の厚木淳訳『火星のプリンセス』では、32ページから128ページに相当する)に過ぎない。「オール・ストーリー」誌掲載の"Under the Moons of Mars"ではないのだ。
 〈世界SF全集〉に収録された『火星の月のもとで』はサム・モスコウィッツ編著の古典SFアンソロジー兼研究書"Under the MOONS of Mars"に収録された同作品を翻訳したものと思われる。このアンソロジーは長い作品を数多く収録する関係上、かなり大胆に部分抽出(たとえばA・メリットの『ムーン・プール』にしても40ぺ−ジ足らずに収まっているほど)しており、バローズ作品も例外ではない。念のため突き合わせてみたら、抽出部分が全く同じだったから、まず間違いないだろう。(〈世界SF全集〉版の解説を書いている野田昌宏氏には断わり書きを入れてほしかったと思う。今さら一見無駄とも思えるバローズの略歴を紹介しているのは、こういった誤解を解いておきたいという意味もあるのだ)
 ま、それはともかく――
 「オール・ストーリー」誌は"Under the Moons of Mars"に対して400ドルを支払ったという。当時「オール・ストーリー」誌は原稿料の即時支払い制を採っており、生活に困窮していたバローズはずいぶん助かったらしい。
 ウォルター・スコットの『アイバンホー』のような作品を――というメトカーフの要請によって書かれた第2作The Outlow of Torn"(13世紀のイギリスが舞台で、幼い英国王子が誘拐されて……という話。この作品、バローズの処女作としてある解説もあるが、第2作である)は没になったものの、続いて書かれた第3作、"Tarzan of the Apes"は凄かった。「オール・ストーリー」誌1912年10月号に一挙掲載されるやいなや、大評判になったのだ。今なお絶大な人気を誇る永遠のベストセラー、そしてヒーロー“ターザン”の誕生である。
 この"Tarzan of the Apes"(邦訳は『類猿人ターザン』)の成功は、バローズの作家としての地位を不動のものとした。以後も〈ターザン〉〈火星〉〈金星〉〈ペルシダー〉なとのシリーズを並行して執筆、バローズは作家としての名声をますます高めていき、ついにはバローズというひとつのカルチャーを形成するまでになる。
 優れた先駆者が現われると、必ず多くの模倣者が追随するものだ。バローズもその例に漏れず、バローズの成功以後、その作風を真似る作家が数多く輩出した。〈ラジオ・マン〉のラルフ・F・ファーリー、"Polaris of the Snows"のチャールズ・B・スティルソンなどなど……。なかでも、オーティス・A・クラインは有名で、バローズとクラインが繰り広げた“火星、金星争奪戦”のエピソードは日本でも紹介され、よく知られている(創元推理文庫版『金星の海賊』訳者あとがき参照)。O・A・クラインの作品は"The Outlows of Mars"(久保書店版は『火星の無法者』、創元推理文庫版は『火星の黄金仮面』。訳者はともに井上一夫)が翻訳されているので、読んでみるのも一興だろう。新しくは、〈緑の太陽シリーズ〉のリン・カーターや〈反地球シリーズ〉のジョン・ノーマンらが精力的にバローズの世界を構築しようと試みているが、そのいずれもがバローズ・ファンから見ると物足りない。違和感が拭えないのだ。
 残酷なもの言いかもしれないが、彼らがいかに模倣し近づこうとしても、とうてい達することのできない次元“聖域”に、バローズは最初から位置していたのである。これは天性の資質と見るべきだろう。バローズ以外の人間がバローズの世界を構築しようと思うこと自体、間違っているのだとさえ言える。
 さて、作家としては順調な人生を歩んでいたバローズだったが、逆に生活面では恵まれなかった。1934年にはエマと離婚。翌年、ターザン映画のプロデューサーであるアシュトン・ディアホルトの元夫人フローレンスと結婚するが、それも長続きはせず、6年後には離婚してしまう。
 齢をとってもバローズの軍人好きは変わらなかった。第一次世界大戦には陸軍少佐として従軍、第二次世界大戦の際も、六十歳半ばを越す高齢にもかかわらず、ロサンゼルス・タイムスの特派員に志願するなど元気な姿を見せたが、寿命には克てず、1950年3月19日、エンシノ(カリフォルニア州南部の町)で、バローズはその一生を終えた。享年74歳。死因は心臓発作であった。
 H・H・ヘインズのリストによると、バローズが生涯に発表した作品は長短編合わせて109編、単行本にして69冊であるという……。

2 バローズ翻訳の歴史

 さて。
 ここでようやく、タイトルにもなっている“バローズはSF作家か?”である。結論から言ってしまうと、ぼくは“バローズはSF作家ではない”と思っている。
 ぼくは〈火星シリーズ〉を読んでSFの魅力を知り、その後もバローズ作品をSFとして楽しく読んできた。しかしそれでも、“バローズはSF作家ではない”と思うのだ。正確には、“バローズは本質的にはSF作家ではない”ということだが……。
 では、日本ではなぜバローズにSF作家という肩書きが冠せられたのか?
 それを考察するために、まずは日本でのバローズ翻訳の歴史を振り返ってみよう。

 バローズの翻訳は、ぼくの知る限り、古く大正時代から行なわれている。
 大正10年(1921年)発行の『人猿タアザン』(博文館、天岡虎雄訳)がおそらくその嚆矢と思われる。この本、残念ながら現物は見たこともないが、昭和15年(1940年)発行の博文館文庫『人猿タアザン』は所有している。邦訳名、訳者、出版社ともに同じなので、同一内容と考えてまず間違いなかろう。文庫版では、作者名はエグダア・バアローとなっており、内容は〈ターザン・シリーズ〉第一巻『類猿人ターザン』の忠実なアブリッジ(なんという表現か!)である。
 続いて研究社発行の雑誌「中学生」の大正12年(1923年)1月号から1年8ヵ月に渡って『火星の神神』(のちに『火星の王子』と改題)が連載された(計18回。翻訳者は本多秀彦、作者名はちゃんとエドガア・バローズとなっている)。これが何と、あの〈火星シリーズ〉の第2巻『火星の女神イサス』なのだ。ぼくはこの作品が連載中の「中学生」を1冊しか持っていないが、この連載についてはSF研究家・岡田正哉氏発行のファンジン「ベム」第11号にイラストを中心とした部分復刻がなされているし、横田順彌氏も『日本SFこてん古典』(「SFマガジン」196号)で紹介されているので、興味のある方は一読をお勧めする。
 また、大正14年(1925年)に博文館発行の「中学世界」に『怪奇冒険 人か獅子か』という作品が連載されたらしいが、詳しいことは知らない。
 昭和にはいってからは、ターザンの子ども向きの翻訳が数多く出ているようだ。
 実は手元に島本光昭氏による『バローズ翻訳史』(昭和42年「宇宙塵」117号所載)がある。大正時代についてはあやふやだし、戦前に関してもいかにも頼りないが、戦後の出版となると、かなり詳しく述べられている。ここで抜粋してみよう。
 昭和27年。「少年クラブ」に絵物語ターザンが連載。
 昭和29年。小山書店のターザン・シリーズ(西条八十訳、2冊で中絶?)、講談社の『ターザン物語』(塩谷太郎訳、3冊)、宝文館のターザン文庫(野上彰訳、2冊?)刊行聞始。しかし、いずれも完結には至らなかったらしい。
 昭和36年。実業之日本社の『ターザン物語』全6巻(野上彰訳)刊行。
 となっている。そのほかにも少年少女向けの文学全集にも〈ターザン・シリーズ〉が数多く収録されているとのことだが、具体的な記述はない。
 すなわち昭和30年代半ばまでは、『火星の神神』という唯一の例外はあるものの、バローズはあくまでもターザンの作家であり、SF作家ではなかった。それなのになぜ、そしていつ、SF作家バローズが誕生したのだろうか。

 野田昌宏氏(当時は宏一郎)の『SF英雄群像』(「SFマガジン」昭和38年連載聞始)など、SF作家としてのバローズも昭和30年代終わりごろから徐々に評価され始めた。
 しかし、SF作家バローズの名を高らしめた大きな要因は、何と言っても昭和40年、創元推理文庫SF部門に〈火星シリーズ〉が収められたことだろう。
 現在の隆盛からすると考えられないことだが、当時SFには市民権が与えられていなかった。市民権獲得のためには幅広いシェアを開拓することが絶対条件で、この条件を満たすにはバローズの一連の作品群――特に〈火星シリーズ〉が最適だ、と創元推理文庫の編集部は考えたと思われる。
 いわゆるSFとして読まれているアシモフ、クラーク、ハインラインら……巨匠のものした黄金期のSFとは明らかに異種の世界の産物でありながら、SF的小道具には事欠かないし、何はともあれ宇宙が舞台になっている。しかもそれだけではなく、圧倒的に面白いときている。――本質的にはSFではないとはいえ、SF入門書としては絶好だったわけだ。
 出版社の思惑通り、〈火星シリーズ〉は爆発的にヒットし、SFのマーケットは飛躍的な拡大を遂げた。以後、創元推理部文庫は毎年2冊くらいずつのぺースで、確実にバローズ作品を供給し続けてくれている。
 昭和45年にはハヤカワSF文庫が創刊され、それこそ狂ったようにバローズ作品を出版し始める。創刊2年目の昭和46年には、何と10冊もの大量出版(内訳は〈ペルシダー〉6冊、〈ターザン〉2冊、〈太古世界〉2冊)である。その後もぺースはいくらか衰えるもののバローズ作品の驚異的出版は続き、文庫創刊7年目(昭和51年)にして計29冊に達する。5年も前から手を染めている創元推理文庫の23冊を軽く追い越してしまったのだ(現在はまた逆転しているが)。
 つまり結論としては、出版社のSFマーケット拡大戦略がSF作家バローズを誕生させたということになるのである。
 昭和40年代半ば――続々とバローズ作品が翻訳され始めたころに、たとえば〈火星シリーズ〉に出会い、SF開眼した人も多いのではなかろうか。何を隠そう、ぼくもそのひとりだ。昭和44年ごろ、〈火星シリーズ〉を読んでバローズのファンになり、しばらく経って創刊されたハヤカワSF文庫に狂喜した。昭和46年にはバローズ熱は最高潮、次から次へと出版されるバローズ作品をことごとく買い求め、無我夢中で読み耽った。――全く素晴らしい時代だった。ぼくにとって、最も熱狂的に読書した時代だったと言えるだろう。
 バローズはその魅力的な作品群によって、日本にSFファンを驚異的に増やす役割を果たした。この事実に関しては疑う余地はない。しかし……。
 今となっては、もはやSF界にとってバローズは不用の存在になってしまったようだ。SF出版のメッカ早川書房が、一時はあれほど力を入れていたのに、昭和52年以降は4年間で3冊しかバローズ作品を出版していないのは、その顕著な表われだろう。(出すものがないとは言わせない。毎月1冊刊行される予定だった〈ターザン〉が9年経った今でも完結していないのは、いったいどう解釈すればいいのだ?)
 バローズ作品は必要ない。――確かにそうかもしれない。おそらく真実なのだろう。
 だが、釈然としない。理解はできるが、どうしても納得できないのである。

3 バローズとSF

 バローズは一般的にはジャングルの王者ターザンの作者として知られている。しかし、SFファンにとってのバローズは、ターザンは付け足しに過ぎず、〈火星シリーズ〉に代表されるSFシリーズ群の作者である以外の何者でもあるまい。――それほど日本のSFファンにとってSF作家バローズは馴染みの深い存在となっているのだ。
 だが、やはり前述したように、バローズは本質的にはSF作家ではなかった。ターザンの作者、すなわち大衆小説作家なのである。
 誰の言葉か忘れたが、「SFを書いた者がSF作家ではなく、SF作家の書いた作品がSFなのだ」という一見逆説的な発言は、まさにバローズに向けて発せられたように思われる。
 結果として“SF”の側面を持つ作品を書き続けたのは事実だが、バローズは決して意識して“SF”を書こうとしていたわけではない。
 バローズは近代文明を嫌悪し、逢かな石器時代に想いを馳せていた。その発想の原点は“SF”ではなく“野性回帰願望”だった。自己に奥深く内在する“願望”をフィクションとして具現化したかったのだ、
 バローズの代名詞とも言えるターザン自体が“野性回帰願望”の権化のような作品であるし、『石器時代から来た男』や『五万年前の男』で、自分の意志とは関係なく現代社会に出現することを余儀なくされた石器時代人ヌーやジンバー・ジョーの発する淋しさ、やるせなさには、より一層の“野性回帰願望”――激しく胸を打つ野性の息吹きを嗅ぎとることができる。バローズが“ターザンの作家”として評価されるのは当然のことだろう。
 火星、金星、月、未知の惑星、地底世界、未来世界……といったいかにもSF的で神秘的な異世界を舞台とし、また透明人間、人造人間、頭脳交換、超能力、宇宙船……といったSF的小道具も賛沢なくらいに散りばめられてはいるものの、それはあくまで舞台と小道具に過ぎない。バローズのイマジネーションを最大限に刺激したのは“SF”ではなく、自らの創造した主人公(ヒーロー)、美女(ヒロイン)、悪党たち――すなわち“人間”だった。どのような異世界を舞台にしようとも、主人公は常に“人間”であり、宇宙人やBEMではないのだ。
 “SF”を超越したところで“人間”を中心としたバローズ独自の物語性豊かな、波乱万丈のストーリーが展開される。そこには、たとえば思弁(スペキュレーション)などというような煩わしい観念のはいりこむ余地はない、めくるめくストーリーテリングの冴え――それこそバローズの魁力なのだ。
 もちろん、〈火星シリーズ〉や〈金星シリーズ〉は言うに及ばず、人造人間テーマの傑作『モンスター・マン』や22世紀の地球を予見した怪作『失われた大陸』など、バローズにはSF的な作品が多いし、バローズがSFを書かなかったと言っているわけではない。それどころか、傑作SFも多いのである。
 なかでも〈太古世界シリーズ〉と〈ムーン・シリーズ〉の各三部作(両作品ともシリーズというよりも一個の長編と見た方がいいが)は、傑作SFの双壁と言えるだろう。
 〈太古世界シリーズ〉は、太古の恐龍世界が今なお存在する南太平洋の孤島キャスパックを舞台に繰り広げられる冒険譚だが、物語を構成するメイン・アイデア――奇抜な進化の法則はSFファンの興味をそそる。キャスパックでは、あらゆる生き物が卵から生まれ、外世界の人間が何億年もかけて進化した段階をひとつの個体が一生の間に経験するのだ。
 この神秘に加えて、胎生の人間(コス・アタ・ル(ロ))や、男(ル)しか生まない鳥人ウィールーも絡んで、ただでさえも不可解な進化の謎に拍車をかける。――第一・二部で張られた伏線をもとに、第三部でその謎を解明させる手法も鮮やかだ。コナン・ドイルの『ロスト・ワールド』は1921年に発表されたが、それからわずか6年後、あえて本編を発表したバローズの意気込みが伝わってくるような傑作である、
 〈ムーン・シリーズ〉は、月人(カルカル人)と地球人の間における400年の闘争の物語で、20世代に渡るジュリアン家の人々の冒険譚をジュリアン三世に語らせるという形式を採っている。ジュリアン三世は過去未来を問わず、すべてのジュリアン家の人々の記憶を受け継いでいるという設定――すなわち輸廻転生だ。第一部はスペース・オペラ、第二部は未来小説、第三部は西部劇という体裁をとっており、さながらバローズ・ランドの展覧会的な趣きがある。『失われた大陸』とは違った意味で、バローズ的見地から人類の未来を描いた傑作と言えるだろう。
 しかしそれでも、バローズはSF作家ではない! ――と声を大にして言おう。
 これらの作品は、確かに“SFの傑作”としても読めるが、決してそれだけではない。もはや“バローズ”としか表現できない特殊な要素“バローズの香り”を秘めているのである。
 バローズは既存の文学ジャンルを超えた新しい独自のジャンルを確立した! むろん、そのこと自体はSF界において評価すべき性質のものではないが、あの時代にあれだけ豊饒なSF的イマジネーションを発散し続けていたという事実は、それだけでもSF界で評価する必要があるだろう。
 そして、バローズの作品が日本に多くのSFファンを誕生させたことも……。

【参考資料】
★年度別バローズ作品の出版点数の推移(昭和55年末日まで)

昭和40年 2 0 0 0 2
41年 4 0 0 1 5
42年 3 0 2 2 7
43年 4 0 2 1 7
44年 2 0 1 0 3
45年 1 3 0 1 5
46年 2 10 0 0 12
47年 0 5 0 0 5
48年 1 3 0 0 4
49年 1 4 0 0 5
50年 1 2 0 0 3
51年 2 2 0 0 4
52年 4 0 0 0 4
53年 3 1 0 0 4
54年 1 1 0 0 2
55年 3 1 0 0 4
34 32 5 5 76
創: 創元推理文庫
早: ハヤカワSF文庫
角: 角川文庫
ハ: ハヤカワSFシリーズ

comment

 古くからのバローズ・ファンで、ペルシダー用語集、キャスパック用語集などの同人誌も発行していたという高井さんから、以前書いたというバローズ試論の原稿をいただきました。『トーンの無法者』も独力で読んでいた、という高井さんの力の入った考察に、感動します。
 特に、SF全集収録の『火星の月のもとで』の出典を明らかにしたことは独自の発見として、すばらしいものと思います。
 さらに発展したバローズ論をふたたび読ませていただける日が来ることを願っています。

 追記:今回掲載した高井信さんの原稿は、ご本人には投稿原稿という意志のなかったものを、わたしが早合点して掲載してしまったものです。そのことに気づいて、事後にはなってしまいましたが、あらためて謝罪の上掲載の許可を求めたところ、快く認めていただいたので、その旨をここに明記します。
 ご存じのように、高井信さんはバローズ・ファンであることは間違いないとはいえ、著作物によって収入を得ているプロの作家ですので、その著作権について特に尊重する必要があると考え、ここに明記するものです。そういうわけで、本HPに掲載されている高井さんの文章については、全体・一部を問わず、無断転載などは慎まれるよう、お願いいたします。(15 Feb.2002)

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