ERB評論集 Criticsisms for ERB


高橋豊「アフリカとローマ帝国」

ハヤカワ文庫特別版SFターザンと失われた帝国解説より


「ターザンと失われた帝国」は1928年から29年にかけてオール・ストーリー誌に連載され、39年に単行本として出版された。ターザン・シリーズとしては中期の“秘境もの”の一つである。
 秘境オパルがアトランティス王国の伝説を下敷にしているように、この小説の舞台である二つの古代都市国家は、紀元前200年ごろから数百年間にわたって膨大な領土を支配し、世界政府とまでいわれたローマ帝国の落し子のような形で設定されている。もちろんこのウィラムワジ山中の都市国家も虚構にすぎないのだが、しかし単なる空想ではなく、史実的な根拠をふまえている点で、ターザン物語としては異色であるといえよう。
 もともとローマとアフリカとの関係は古く、紀元前218年にはカルタゴの英雄ハンニバルが大軍をひきいてアルプスを越え、ローマを攻めたが、逆に追いつめられて本国に帰り、ザマで最後の決戦をいどみ、ローマ軍に敗れた。それ以来ローマはたびたび北アフリカへ軍を送って植民地をふやし、紀元前30年には、かの有名な女王クレオパトラの死とともにエジプトを手中におさめた。
 この小説の舞台となっている謎の都市国家がナイル河の源流のあたりに創設されたのは、ローマ帝国の最盛期、いわゆる五賢帝時代である。ネルウァ帝(在位期間紀元96年〜98年)トラヤヌス帝(同98年〜117年)ハドリアヌス帝(同117年〜138)アントニヌス・ピウス帝(同138年〜161年)マルクス・アウレリウス帝(同161年〜180年)の五人の皇帝は、王朝制をとらず、それぞれ前の皇帝によってその存命中に養子とされ、前帝の死後元老院によって帝位に推された。王朝制のもとでは暗愚な息子が帝位について紛争のたねをまいたり、ネロのような暴君が現われたり、あるいは帝位をめぐって奸婦が暗躍し、宮廷内に血なまぐさい葛藤が絶えなかったが、この養子相続による帝位継承の制度は、王朝制の欠点をさけて、すぐれた人物を皇帝に選ぶことを可能にした。それは、各皇帝にたまたま実子のなかったことも幸いしたわけだが、とにかくこの時代は、広大な帝国が辺地をのぞいて比較的によく治まり、平和が保たれていた。“ローマ帝国衰亡史”(1786年)の著者エドワード・ギボンは、この時代を「人類史上もっとも幸福な時代であった」と讃えている。ローマ 帝国の最大版図が達成された時代でもあった。
 こうしたローマ帝国の繁栄は、属州の各地に多くのローマ的都市を出現させた。中心部に広場があり、神殿、劇場、円形闘技場(コロシウム)、公共浴場、水道設備などをそなえて、がんじような城壁に囲まれた、ローマとほとんど同じ市制と外観をもつ小ローマが、エジブトだけでも、アレキサンドリア以外に40あったといわれている。したがって、ナイル河の上流に“失われた帝国”があったとしても、決して不思議ではないわけである。
 また、この小説にも書かれているとおり、属州の住民はすべてローマ市民権を与えられていたし、193年には、アフリカ人であるセプティミウス・セウェルスが帝位につくようになり、やがてゲルマン民族の大移動とともにローマ帝国は東と西に分裂する。“失われた帝国”が二つに分裂していたことも、この史実と無関係ではないように思われる。また、びんらんした異性関係が多くの対立抗争や政変を生んだローマ宮廷の生態も、さりげなくストーリーにとりいれられ、物語をおもしろくしている。
 そもそもターザンとローマ帝国という奇想天外な発想それ自体に、作者バロウズの面目躍如たるものがある。ターザン・シリーズの中では出色の作の一つといえるだろう。


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