創元推理文庫「ターザンの世界ペルシダー」解説より
Jun.1976
地底世界シリーズでは1、2巻でディヴィッド・イネスが活躍し、3巻ではそのイネスの僚友ガークの息子のタナーが代役を務めたが、4巻目に至って、〈ジャングルの王者〉ターザンとカリフォルニアの無電技師ジェイスン・グリドリーが登場して主人公(ヒーロー)の座を分け合うことになる。“ペルシダー”と“ターザン”というバローズの人気シリーズが本巻に至って交叉した形になり、ターザン・シリーズとして考えれば16巻目に当るが、しかしペルシダーという特異な環境と、ディヴィッド・イネス救出という目的から見れば、これは当然、地底世界シリーズに含めるべきであろう。ターザン・シリーズから、その16巻目が消えても、なんら支障はないが、地底世界シリーズは、このあとの5巻、6巻が、いうなれば本巻を起点として再出発する形をとり、飛行船O-220号が引き続いて登場するからである。
さてバローズの手記によれば、前作の「海賊の世界ペルシダー」を脱稿したのが1928年11月21目で、翌月の12月9日に、本書を起稿している。単行本の刊行は1930年である。前作は、スペイン海賊の出現と、極地にある地表から地底世界へ通じる開口部の発見をテ―マにしていたが、本巻では表題どおりターザンとO-220号の登場が読者の意表を突く趣向になっている。この当時のターザンは、もはや類人猿力ーラに育てられたままの野性の猿人ではなく、すでにロンドンに留学して教養と学問を身につけ、グレイストークという亡父の爵位も相続した貴族でもあるのだが、文明嫌いの本人の意志で、あい変わらずアフリカのジャングル暮らしをしているのである。本巻を読了したあとで「火星シリーズ」以来のバローズ・ファンなら、こういう空想が働かないだろうか――ある日、地球上で恐るべき大事件が勃発する。苦境に立ったその主人公(ヒーロー)と女主人公(ヒロイン)を救うべく、持ち前の義侠心を発揮したジェイスン・グリドリーは、その独特のグリドリー波を使って宇宙空間と地底世界に向けて打電する――SOS救援たのむ。知らせを受けて地底世界からは鉄モグラに乗ったディヴィッド・イ
ネスが、アフリカのジャングルからはターザンが、金星からは不時着した際のロケットに乗ったカースン・ネーピアが、そして火星からは得意の空間移動(テレポーテイション)によってジョン・カーターが地球上に飛来し、この一騎当千の四人の勇士が協力して敵を粉砕し、めでたしめでたしの幕になる――望蜀の感はあるにしても、バローズに書いてもらいたかったと思うのは、あながち訳者一人ではあるまい。
ところで、飛行船O-220号、100号も200号もないのに忽然として220号が登場するので、この名前はいささか奇異な感じをあたえるが、種明かしをすれば、なんのことはない、実は執筆当時の作者の家の実際の電話番号だったのである。
さて訳者もバローズの作品に親しく接してから早くも十年以上の歳月が流れてしまった。その間には、数々の冒険と、すくなからぬ英雄豪傑、そして絢爛たる美女たちに接してきたが、直情径行、純情無垢な彼らがいちように作者バローズの実はペシミスティックな世界観から生まれていることに再三、気づかされてきたことをここで記しておきたい。バローズは人類の進歩という概念に、すこぶる懐疑の目を向けている。文明の虚飾に覆われた人類は、むしろ退化しつつあるのではないかというのが彼の感慨なのだ。この抜き差しならぬ文明文化への嫌悪感は、裏返せば逆に、野性への讃歌、原始への回帰願望となる。バローズが好んで未開社会と末開人、そして野獣を描くのは、必ずしも冒険小説の舞台としての必然性からだけではないようだ。例えば本書では、二種類の黒人がさりげない対比の上で描かれていることに読者は気づかれたであろうか? 文明化されたアメリカニーグロのロバート・ジョーンズは、愛嬌者ではあるが腰抜けの臆病者である。それに対して、同一人種でありながらも、アフリカのワジリ族の、いかに勇敢で寡黙であることか。寡黙のあまり、彼らは文中でほとんど発言してい
ないが、その堂々たる威厳をそなえた剽悍さは、まさに野獣のそれに劣らない。グリドリーの地上世界に於けるガール・フレンドと〈ゾラムの赤い花〉との対比はいうまでもない。
グリドリーには人類のあとにどんなものがくるのか、はっきりわかっていた。人類とは造物主がつくりだした最大の愚作であることはまちがいない。それは無脊権動物から哺乳類まで、人類に先立つさまざまの生物の悪徳をすべてあわせ持っているくせに、それらの持つ美徳はほとんど身につけていないのだ。(91頁)
オーヴァンは野獣のように沈着な威厳をそなえていた。彼には、文明人の誇りであると同時に不幸のもとでもあるおしゃべりなところがなかった――平穏な鮮新世には、ロばかり達者な少年など存在しないのだ。(214頁)
学者たちは、得てしてわれわれの原始的な祖先を、内気で臆病な生きものとして描く慣習がある。原始人は一生を通じて無数の凶暴な生物に悩まされてたえずびくびくしながら、母胎から墓場まで逃げ続けていた、というのだ。しかし、攻撃や防御の能力がひどく乏しい生きものが勇気もなしに生きのびられたということは道理に合わない。(79頁)
半世紀前に書かれたこうした文章は今もっていっこうに色あせない。それどころか、公害や汚染におびえ、テレビのジャリ番組に悩まされ、原水爆戦争のストレスの下に生きている現代人にとって、逆にますます生彩を帯びてくるように思えるのはなぜだろう?
注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。