角川文庫『火星の大元帥カーター』解説より
30 Jan.1968
「火星のプリンセス」と「火星の女神イサス」につづいて、いよいよ、この一大空想科学冒険物語の完結篇をお送りしよう。本書「火星の大元帥カーター」The
Warlord of Mars はエドガー・ライス・バローズ
Edgar Rice Burroughs の火星シリーズの第3作にあたり、前2作を受けて話の筋はここに落着する。(原作者はこのあとさらに7冊――あるいは新発見の中篇を加えれば8冊――の火星物語を書きつづけたのだが、本文庫ではジョン・カーターの活躍する3巻目までで一応区切りをつけておきたい)。
作者E・R・バローズについては前の2巻のあとがきにしるした通りであり、ここではただ、今世紀前半のアメリカが生んだ異色大衆作家、「スペース・オペラ」と呼びならわされた宇宙冒険小説の鼻祖、とだけ書いておこう。「プリンセス」(1912年)「女神イサス」(1913年)のあとを追って、本書は1914年の作品である。
この小説の冒頭に至るまでの物語の運びをたどってみれば――もと南軍の職業軍人だったジョン・カーターは南北戦争後、アリゾナ州の荒野で火星のふしぎな力に牽かれ、一気に弱肉強食の火星世界へ飛来する。そして抜きんでた武勇の力で緑色人部族の幹部になり、囚われの赤色人の王女デジャー・ソリスの苦難を救い、緑色人種と赤色人種の和解を成立させる(第1巻)。2度目にカーターが飛来したとき、下り立った場所は緑色人や赤色人のあこがれる死後の楽園――イス川が流れこむコルスの海のほとりだった。だが、そこは楽園どころか、白色人種の支配する残酷な世界であり、その白色人たちが至上の神と仰ぐ女神イサスは、実はよりいっそう残酷な黒色人種の頭目の老婆にすぎなかった。この支配の線をたどってジョン・カーターは突き進み、ついに女神イサスと対決して長年にわたる火星人たちの迷信を打ち破る。けれどもカーターの身を案じてこの地獄を訪れたデジャー・ソリスは女神にとらえられ、カーターに恋する情熱的な白色人の女性ファイドールや、純情可憐な赤色人の娘サビアといっしよに、1年間のタイム・ロックがかかった太陽殿なる牢獄に閉じこめられてしまう(第2巻)。
本書はデジャー・ソリス救出に至るまでの主人公カーターの大活躍を描き、その舞台は南極に近い女神イサスの太陽殿から赤道直下の密林(ジャングル)の国ケオールヘ、さらには北極をとりまく黄色人種の国へと移る。つまり、われらの超人的な主人公は子午線ぞいに火星を縦断するわけで、その行動のスケールは前2作のどちらよりも大きいのである。そして怪異な生きものという点でも、ケオールに棲息する牛ほどの大きさのスズメバチとか、極地帯の雪原に住み巨大な複眼をもつ猛獣とか、さまざまな珍しい火星生物がわたしたちを驚かせてくれる。
しかしこの第3巻の特徴は何よりもまず「スペース・オペラ」に特有の暗い面と明るい面とを徹底的に描ききっていることであろう。暗い面、すなわち若干のデカダン昧のまじったゴシック・ロマンふうのところは、たとえば太陽殿の地底の描写などにいちじるしくあらわれている。ことにクリスタルの迷路の彼方にデジャー・ソリスの姿が朦朧と現われるくだりは「火星シリーズ」中もっとも美しい箇所といえるだろう。明るい面――科学技術的・未来論的な面の好例としては、北極の雪と氷のただなかのガラスのドームに覆われた温室国家、マレンティナ公国を思い出していただきたい。こんなふうに作者バローズの想像力は詩と科学とをあざなうようにして、かなり幅広いかたちで物語を押し進めていくのである。、単なる荒唐無稽の一語でこの作家を片付けることは不当であり、不正確でもあると言わなければならない。
もう一つ忘れてならないのは、本書の終結部に現われる火星諸民族友好の図である。「まだバルスームのあらゆる国が一つになったわけでは広いが、その目標をめざして大きく一歩前進したのである」(本文242頁)。思い出してみれば第2巻にも、主人公が赤色人、緑色人、黒色人それぞれ1人ずつと逃亡する場面があった。「この小人数の一隊の中には、仲間を見捨てようとする人間は一人もいなかった。国も、皮膚の色も、人種も、宗教も異なる者ばかりで――そのうちの一人は生まれた世界まで異なるというのに」(「火星の女神イサス」253頁)。これは作者バローズの一種の世界連邦主義でなくて何だろう。第一次世界大戦の直前に大衆小説の分野でこういう文明批評を行なった男がいることを、わたしたちは銘記すべきであろう。なるほどジョン・カーターは戦い好きな血なまぐさい人物であるけれども、その行動の裏にきわめてナイーブな理想主義がひそんでいることは見逃せない。それはよかれあしかれ今世紀前半のアメリカ人の心的傾向を決定した要素の一つなのであった。