『火星のプリンセス』はしがき
創元推理文庫『火星のプリンセス』より小西宏訳
1965.9.10
この作品を読まれるかたがたに
カーター大尉の世にもふしぎな草稿を、本にまとめて世にだすにあたり、この驚嘆すべき人物に関して二、三のことをのべておくのは、読者諸君にとっても興味あることと思う。
カーター大尉のことを思いだすとき、まず最初にわたくしの頭に浮かぶのは、大尉がバージニアのわたくしの父の家で過ごした数か月のことである。あれは南北戦争が勃発する直前のことで、当時わたくしはまだほんの五歳の子供だった。しかし、わたくしがジャックおじさんと呼んでいた、長身で色浅黒く、さっぱりとひげを剃った、筋骨たくましい人物のことはよく覚えている。
大尉は絶えず笑っていたように思う。彼は、同年配の男女が娯楽を楽しむときと変わらない熱心さで子供たちの遊びの仲間に心からとけこんだし、かと思うと、一時間もすわりっきりで、わたくしの年老いた祖母に、世界を股にかけた彼の世にもふしぎで野放図な生活の断片を物語って聞かせたりした。わたくしたち一家は、こぞって大尉を愛していたし、奴隷たちは彼が踏んだ地面を拝まんばかりだった。
大尉は男の中の男だった。背はゆうに1メートル90センチを越し、肩幅はがっしりと広く、腰はほっそりとしまっていて、身のこなしはいかにも鍛えあげた軍人らしかった。容貌は端整で眉目秀麗、髪は黒く、短かく刈りこんでいた。いっぽう、目は鋼鉄のような灰色で、火のようにはげしく、進取の気性に富んだ強い誠実な性格をうつしだしていた。礼儀作法は申し分なく、最上流の南部の紳士特有の優雅さをそなえていた。
彼の乗馬ぶりは、とりわけ猟犬のあとを追っていく場合には、馬術の達人が多いことで有名なこの土地ですら目を見はるほどで、見ていても気持がいいほどだった。その無鉄砲さかげんに、しばしば父が注意するのを耳にしたものだが、彼はただ笑うばかりで、わたしが落馬して死ぬようなことはありえないよ、わたしをふり落とせるような馬はこの世の中にはいないからね、というのがその返事だった。
南北戦争が勃発すると、大尉はわたくしたちのもとを去った。そしてそれっきり、ほぼ15、6年間というもの、一度も姿を見せなかった。ところが、ある日なんの前ぶれもなしにひょっこり帰還したのである。わたくしは大尉がぜんぜん年齢をとっていないのを認めてひどく驚いた。外見もいっこうに変わらない。ひとといっしょにいるときは、相変わらず愛想のいい陽気な人物だったが、ひとりっきりになると、物思わしげに、なにかを慕っているような、それでいてどうしようもないといったみじめな表情をうかべて、何時間もじっと空を仰いているのを見かけた。夜になると、いつもそんなふうにじっと空を見あげているのだが、なにを見ていたのかは、何年かのちに彼の草稿を読むまではわからなかった。
戦争後、大尉はアリゾナで、ある期間、鉱山を試掘したり採鉱したりしていたのだとわたくしたちに語った。それが非常な成功をおさめたということは、彼がいつでも無尽蔵に金を持っていることからも明らかだった。その間の生活の詳細について大尉は多くを語りたがらず、また事実、なに一つ語ろうとはしなかった。
ほぼ一年わたくしたち一家と暮らしてから、大尉はニューヨークに出て、ハドソン河畔にこぢんまりとした邸宅を買った。わたくしは年に一度ニューヨークの市場に出張するついでに彼を訪れた―当時、父とわたくしはバージニア州一帯に雑貨のチェーン・ストアを経営していたのだ。カーター大尉の住いは、ハドソン河を見おろす崖の上の瀟洒な小邸宅だった。一八八五年の冬、大尉のもとを最後に訪問したときの滞在中に、わたくしは彼が書き物に専念しているのに気がついた。いまにして思えば、この草稿を書いていたのだろう。
そのおり、大尉は、もし自分の身の上に万一のことがあったら、財産を管理してもらいたいといって、書斎においてある金庫の中のコンパートメントを開ける鍵をわたし、その中に遺書と、そのほか個人的な指示を書いたものがはいっているから、なに一つたがえず忠実に実行してくれるように、とわたくしに誓わせた。
その夜、わたくしが部屋に引きとったあと、彼がハドソン河の上にそびえたつ断崖の縁に月光を浴びて立ち、まるでなにごとかを訴えるように、空にむかって両腕をさしのべているのが窓から望見された。祈祷をしているのだろうとそのときは思った。もっとも、大尉が厳密な意味で信心深い人物だと聞いた覚えはなかったが。
最後に訪問してから数か月後、あれは1886年の3月1日のことだったと思う。わたくしは、至急、こられたし、という電報を彼から受けとった。わたくしは身内の若者の中ではいつも一番のお気に入りだったから、とるものもとりあえずかけつけた。
1886年3月4日の朝、わたくしは彼の所有地から約1マイル離れた小さな停車場に到着した。そして貸馬車屋に、カーター大尉の邸までやってくれと頼むと、その男は、もしやあなたは大尉の友人ではないか、それならば悪いしらせがあるのだが、といった。大尉はちょうどその朝、夜明け直後に死んでいるのを隣家の夜警に発見されたのだという。
どういうわけか、わたくしはこのしらせに驚かなかった。が、とにかく遺体を引きとって後始末をするために急拠、彼の家にかけつけたのである。
せまい書斎には、大尉を発見した夜警が、土地の警察署長や町のひとびと数名とともに集まっていた。夜警は、死体を発見した際のもようをいくつか語ってくれた。彼が行き合わせたときには、まだ死体には温味が残っていたという。
大尉は両腕を断崖の縁にむかってさしのべて、雪の上に長々と横たわっていた、と夜警は語った。わたくしはその話を聞いて、大尉を訪問していた当時、夜ごとに懇願するように両腕を空にむかってさしのべている姿を見かけたのと、同じ場所であることが、すぐにぴんときた。
遺体には他人から襲われた形跡はなかった。土地の医師の助力を得て、検死陪審は、死因は心臓麻痺であると、たちどころに結論をくだした。書斎にひとり残ってわたくしは金庫を開き、指示を書いたものがはいっていると大尉が教えてくれた引出しを開けて中味をとりだした。実際、風変わりな指示も中にはあったが、わたくしは最後の一つに至るまで、できるかぎり忠実に実行した。
彼は、遺体には防腐処置をほどこさずにバージニアに移し、まえもって作らせてある墓の中の蓋の開いた棺の中に横たえるように、と指示していた。これはあとになって知ったことだが、その墓は充分通風がきくようにできていた。この指図を読んで、わたくしは、もし必要とあれば人目を避けてでも、このとおりに実行されるよう、じきじきに見届けなくてはならないと痛感した。
大尉の資産は、基本財産がわたくしのものになるまでの25年間、全収入がわたくしの手元にはいるという形で残されていた。さらにこの草稿に関しては、発見したままの状態で11年間封を切らず、読まないこと、そして彼の死後21年を経るまで、その内容をもらしてはならない、と指示してあった。大尉の亡骸がい裏も眠っているあの墓には奇異な特徴がある。それは、部厚い扉に大きな金めっきのばね錠が1個ついていて、内側からだけ開けられるようになっていることである。