ERB自筆集 Essey that ERB wrote original version


自叙伝体のスケッチ


1日中乗馬してつかれたエドガー・ライス・バローズ
(最初の出版時には写真が掲載されていた)


 わたしはもっと刺激的な生活を送ってこれなかったことを残念に思っている。そうであれば、もっと興味深い伝記体の小品を提供できたかもしれないからだ――しかし、わたしはほとんど冒険することもなく、いつも外出後に火事に出くわすといった、数多くいるやからのひとりにすぎない。

 わたしは父が中国女帝の軍事顧問をしていたときに北京に産まれた。そして10歳まで、そこ、紫禁城の中で生活していた。中国語の深い知識はよい代役としてわたしをたてていた数年間、とりわけお気に入りの勉強、中華哲学と中華陶磁器の2つに取り組んでいたあいだに身につけた。

 合衆国に家族で帰ってきてからすぐにわたしはジプシーに誘拐され、ほぼ3年間というもの、かれらの中で一緒にいた。かれらはわたしに不親切というわけではなかった。そして多くの点でその生活はわたしの気に入ったものだったが、結局のところわたしは両親のもとへと逃げて帰った。

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 多くの年月が経過したあとの今日でさえ、わたしは嵐が吹き荒れた逃亡の夜のことをはっきりと思い出す。ジプシーの王ペドロは夜はいつもかれかかれの妻がわたしを見張れるように、わたしを自分のテントに入れておいた。かれはすばらしく明るく寝る人物で、それはいつだって誘拐した人物の手の中を避けようとするのにはもっとも効果的な障害となっていた

 この夜は、雨と風と雷がわたしを助けてくれた。わたしはペドロとその妻が寝るまで待って、テントのフラップへと這い進みはじめた。わたしは王のそばを通りすぎようとしたとき、片手がかれの横に置かれた堅い金属のものをうち倒した――それはペドロの短剣だった。即時に、ペドロは目を覚ました。鮮やかな稲光の閃光がテントの内部を照らし、わたしはペドロの両目がわたしを見据えているのを目にした。

 おそらく恐怖がわたしをその気にさせたのだろう、あるいはわたしを誘拐したものに対する怒りだったかもしれない。わたしの指はかれの短剣の柄を握りしめ、稲光に続く暗闇の中でわたしは薄い鋼鉄の刃をかれの心臓に深々と沈めた。かれはこれまでにわたしが殺した最初の男だった――かれは音もなく死んだ。

 両親は、わたしにふたたび会えるかもしれないといった希望をすべて捨て去ってしまってから長かったので、わたしの帰還を喜んだ。1年間、わたしたちはヨーロッパを旅したが、そこで家庭教師について、中断されていた教育を追求し、帰ってきてからエール大学に入学できるほどのすばらしい結果を得た。

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 エール大学にいっているあいだ、ヘビー級のボクシングとレスリング両方のチャンピオンを含む少数の運動選手としての名誉を勝ち取った――そして最高学年時にはフットボールのチームとクルーを統率した。成績最上位で学位を受けると、オクスフォードと合衆国に帰ってきて、階級からの任命で陸軍に入隊して2年を過ごした。

 2年間の終わりには陸軍少尉の任命を受けて第7騎兵隊に所属していた。わたしの最初の活動的な任務はカスターとともにおこなった、リトル・ビッグ・ホーンでの闘いである。そこでわたしは唯一の生存者となった。

 大虐殺のさなかの死から逃げ延びたのは、ほとんど奇跡だった。乗っていた馬が下から撃たれて、わたしは軍隊の残兵にまぎれて徒歩で闘っていた。わたしには現実に起こったことを推測することしかできない――しかしわたしはわたしの頭を撃った弾丸はわたしの前にいた男の頭を突き抜けて、その力を弱めた状態でほんの少しわたしを気絶させただけに違いないと、信じている。

 わたしは、ふたつの小さな玉石のあいだに崩れ落ちた――そしてそのあと、馬がわたしの上で撃たれ、馬の体がわたしの上に落ちてきて、敵の目からわたしの体を覆い隠してくれた。ふたつの玉石はわたしを押しつぶそうとする巨体からわたしを守ってくれた。暗くなってから意識を取り戻すと、馬の下から這い出てうまく逃れることができた。

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 インディアンを避けて仲間のもとに合流しようと努めて、6週間さまよい歩き、わたしは陸軍の前哨地にたどり着いたが、わたしの連隊にふたたび加わろうとしたとき、わたしは自分が死んだと告げられた。わたしの権利の主張は将校になりすました咎で逮捕される結果となった。法廷の全員がわたしのことを知っていて、かれらがそれをするように強いられた行為を深く嘆いた――しかしわたしは公的には死んでおり、軍務規定は軍務規定だ。わたしはその問題を米議会に持ち込んだが、そこでもよりよい成功は得られなかった――そしてついに、わたしは名前を変えさせられた。今現在使用している名前を採用し、新たな生涯を完成させるべく暮らしはじめた……。

 数年間はアリゾナでアパッチと闘ったが、その単調さに興味を保てなくなった。そして、後のヘンリー・M・スタンレイからアフリカへのリヴィングストン博士探索の遠征に参加することを要請する電報を受け取ったとき、わたしは狂喜した。

 わたしはただちに受け入れると、さらに50万ドルをかれに預けたが、遠征におけるわたしの名やコネクションは、常に知名度がなくなっていたため、漏らされることはなかったということをご理解いただきたい。

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 アフリカに入ったあとのことを簡潔に述べると、わたしは救援隊から引き離され、ティップー・ティブのアラブ人に捕らわれた。かれらがわたしを殺そうとしていたその夜に逃げ出したが、1週間後にはわたしは人喰い人種の部族の手に捕らえられていた。わたしの長い金髪と流れる口ひげと同じ色のあごひげは、かれらがその原始的な神や悪魔にのために授かった恐ろしいがまでの服従とわたしに対するそれとを一体化した、畏敬の念でいっぱいだった。

 かれらはわたしに悪意などみじんもないことを示したが、3年間というもの、わたしを囚人のままに留め置いた。かれらはその上、科学的には完全に未知のものと思われる数頭の巨大な人間に似た類人猿種族を監禁し続けていた。 そのけものは巨大な体と優れた知性とを備えていた――そして、監禁期間中ずっと、わたしはかれらのことばを学んだ。それは何年も後のことだが、わたしが経験を小説の形で記録することを決断したときに、わたしにかような利益をもたらすはずだった。

 わたしはとうとう人喰い人種の村を逃げ出すと、無一文で友もなく、海岸への道を行き、中国行きの大型帆船のマストの前に乗り込んだ。

 アジアの海岸で難破して、わたしは結局陸路でロシアに進んだが、そこでわたしは帝国騎兵隊に参加した。1年後、ロシア皇帝の暗殺を試みようとしていた無政府主義者を殺すという、わたしにとって偶然の良いことが起こった――わたしがキャプテンとなったこの出来事と、皇帝の護衛になったこと。

 わたしの妻、帝政ロシア皇后の女官、にであった皇帝軍に参加していたあいだ――そして結婚してすぐに、わたしの祖父が亡くなり、800万ドルをわたしに残したとき、わたしたちは生きるためにアメリカに来ることを決めた。

 妻の財産とわたしのそれとによって、わたしは働く必要が無くなった――しかし、わたしにはぶらぶら過ごすことなどできなかった――そして、わたしは職業としてというよりはどちらかといえば気晴らしとして、著作をはじめた。

 私たちはシカゴで数年を過ごし、それから南カルフォルニアにやってきた。そこで13年以上を過ごしたが、そこは今ではターザナとして有名な保養地となっている。

 わたしたちには11人の子供たちと17人の孫、3人の曾孫がいる。

 わたしは名声を経験してきた……それはない。わたしは最大の幸せをバイオリンとともに孤独であることに見つけている。


ロブ・ワグナーのスクリプトによる
(エドガー・ライス・バローズが1932年7月9日に概要を書いたもの)

(翻訳:長田秀樹)


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なんだかよくわからない小品。このくらい波瀾万丈な生涯が送れればよかったのにね、ということをいいたかったのだろうか。ばかばかしいほどのホラ話だが、こういったものを書いてしまうのがバローズ一流の茶目っ気というか、ファンサービス、というものなのかもしれない。

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