創元推理文庫「金星の独裁者」解説より
Apr.1969
ヒトラーなんて知らないよ、という若い世代が出現し始めたそうだが、残念ながら、知らないからといって、知らずにすますわけにはいかないようだ。ナチズムの研究は、政治史、文化史の面からはもとより、倫理と心理の面からも今後、益々盛んに――というよりは、むしろこれからが本格的な研究の始まりになるだろう。ユダヤ人を大量虐殺したのはけしからぬ、といった素朴なヒューマニズムよりする道徳的判断からでは、ナチズムという歴史が生んだ怪物を解明することからは程遠い。歴史はやはり歴史的判断で解釈するほかはないし、歴史的判断が生まれるには、やはりそれ相応の冷却期間を要するだろう。
バローズの金星シリーズの第3巻である本書は、いうまでもなく、ナチスとヒトラーのカリカチュアが、プロットの背景になっている。ヒトラーとナチスの領袖たち、ニュールンベルクの祭典をほうふつとさせる華麗な大分列行進、親衛隊、攻治犯の強制収容所、聖典「わが闘争」とヒトラー青少年団(ユーゲント)、ポーランドかチェコを連想させる被征服国等、まさに第三帝国全盛時代のパノラマを見るような趣さえある。作者バローズは持ち前の赤嫌い(第1巻「金星の海賊」参照)に加えて、ナチス嫌いのために(要するにアングロ・サクソンの全体主義に対する本能的な反撥であろう)、ここではナチスはゴロツキの集団としてくそみそにやっつけられている。その単純なとらえ方に問題はあるが、本書はスペース・オペラであって攻治批判の書ではないから、その点を追及するのは事大主義でもあるし、またお門違いでもあろう。それよりも、とにかくバローズの識見――というか勇気に、わたしは脱帽したいと思う。というのはほかでもない、本書が書かれた1939年という時期を、読者よ、想起されたい。第二次大戦が勃発したこの年
、ナチスはヨーロッパ随一の強国であり、当時のアメリカはむろんヨーロッパの紛争に介入する気はさらさらなく、第一次大戦の時と同様、モンロー主義の名のもとに高見の見物をすることによって、漁夫の利を得ようとする資本主義的要請が強かったのである。しかも国内には、空の英雄リンドバーグを中心とする有力な親ナチ派も、れっきとして存在していたのだ。ナチス没落して二十数年の今日、ヒトラーを戯画化することには、世界中どこにも、いかなる制約も存在しない。しかし1939年、アメリカ資本主義がナチズムとソヴェトの相克による軍需景気を謳歌していた当時、本書ほどの反ナチ的な著作を公刊することは、よほどの見識と社会的圧迫をはね返すだけの勇気を要した仕事ではなかろうか。本書公刊の翌1940年、もう一人の男が「独裁者」という映画を作って、バローズと同じような度胸を披瀝した。このこともまた本書に関連して想起すべき事実のように思われる、
いささか固苦しいあとがきになってしまったが、次回の第4巻では、バローズはこうした政治風刺を離れ、ふたたび奔放なスペース・オペラ作家としての面目を存分に発揮している。アメーバ人間や火の女神などは(字づらだけを見ると、いかにも安直だが)、彼が創造した数々のベムや登場人物のなかでも、待に秀逸な存在ではないかと思われるのである……。
注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。