ERB評論集 Criticsisms for ERB


森優「ターザン、フィルムランドへゆく」

ハヤカワ文庫特別版SFターザンとアトランティスの秘宝解説より


 昨年(1971年)の世界SF大会、愛称ノリスコン(アメリカの北東部都市ボストンで開かれたから)に出席した、SF翻訳家の矢野徹氏は、ある日の昼食会で、懐かしい人物に出会った。
 髪はすっかり白くなり、顔には深いしわが刻まれてはいたが、プロレスラーそこのけの頑丈な体躯と精悍な容貌は若いころそのまま。あのジョニイ・ワイズミュラーだった。といっても、いま30代以前の若い読者にはピンとこないかもしれないが、初代のエルモ・リンカーンから、現在テレビで活曜している第15代ロン・エリーに至るまでのターザン役者中で、最もターザンらしいターザンを演じたといわれる俳優である。1930年代から40年代末までに少年時代を送った人の脳裏には、多かれ少なかれ、銀幕せましと暴れまわったこの役者の野性味あふれる声と姿態が、強烈に刻みつけられているはずだ。
 もともとがオリンピックで金メダルに輝いたこともある水泳選手あがりだけに、かえってそのぎこちない発音と演技が“おれターザン、おまえジェーン”式の野生児の役にぴったりで、その後の(そして、見る機会はなかったが、おそらくそれ以前の)洗練されすぎた、都会的なターザン役者に比べると、群をぬいてクーザンそのものになりきっていた。
 先ごろ、その主演作品のいくつかをテレピで見る機会に接したが、あの独特のターザン・コール以外は例によって日本語吹き変えで多少感興をそがれはしたものの、敗戦後のあの混乱期、田舎町の小便くさい底冷えのする小屋で、かたい木のベンチに痛む尻をもじもじさせ、むきだしの地面から這いあがってくる冷気に足をちぢこませながら、そこだけは赫熱の太陽が輝くスクリーンの中の熱帯ジャングルのざわめきと匂いとに、快惚となっていた子供のころの思い出が、強いノスタルジアと共に甦ってきたものだ。
 その“ターザン”が、世界SF大会に参加したバロウズ・インコーポレイテッド(現在、パロウズ作品の著作権をとりしきっている法人組織)の主催する昼食会に、主賓として招かれていたのである。矢野氏によると、ワイズミュラーは七十歳を越しているとは見えないほど若々しく、自分のポートレートにサインをしてくれ、日本でターザン・シリーズが刊行されていると聞いて、我がことのように喜んでいたそうだ。
 既刊の解説で書いたように、また、本シリーズを一巻でもお読みになった方はどなたもお気づきのように、映画におけるターザンは原作よりもはるかに道徳的で、素朴で、他者への(動物も人問も含めて)愛と優しさにあふれる正義漢である。とはいえ、発表された当時から現在に至るまで、原作がこれほどまでに愛読熱読されているのも、ターザン映画の人気に大きく負うていることは、言うを挨たない。その意味で、ターザンを語る場合、その映画版にも触れなくては、片手落ちというものだろう。
 ターザン映画の全体に関しては、続巻でその方面の専門家にゲスト解説をお願いするつもりなので、ここではバロウズの原作がどのようにして映画化されるに至ったか、その間の事情を少し述べたい。
 バロウズの伝記作者の一人ロバート・フェントンによれば、映画化の話が最初にもちあがったのは、1914年の春、バロウズが作家として本格的にスタートして1年たったころのことである。その1年で8本もの長篇中篇を書きまくって、マガジン・ライター(単行本はまだ1冊も出版されなかった)の地位を確立、親子3人をかかえて食うや食わずの貧窮生活から脱出した彼は、はじめての体暇らしい休暇をとり、妻と共にカリフォルニア州のサンディエゴに出かけた。暖かい南国の気候は持病の神経炎にいい薬となり、彼は気分よくターザン・シリーズの第三作『ターザンの凱歌』にとりかかることができた。
 そんな彼のもとヘ、ニューヨークのジョゼフ・W・スターン商会という音楽出版社兼脚本ブローカーから、問い合わせの手紙が来た。「雑誌でターザンを読んだが、活動写真化に適当と思うので、もしその気があるなら、製作会社と強力なコネのある当社に任せてみないか」といった文面だった。
 なぜかこの提案は結局実らなかったが、明らかにバロウズはこの一件によって、自分の作品が映画になる可能性を秘めていることに気づいた。まもなくシカゴの自宅に戻ると、さっそくニューヨークのオーサーズ・フォトプレイ・エ−ジェンシーという会社に、『類猿人ターザン』の映画化権売りこみを依頼したし、彼の単行本の版元A・C・マックラーグ社(この会社は、彼の初期の作品の出版をほとんど一手に引き受けていた)との契約書には、第2作『ターザンの復讐』の分から、ちゃんと「劇化及び活動写真化権は一切著者に帰属する」との一項目を入れさせた。
 ところが、肝心の映画化はなかなかバロウズの思い通りには実現しなかった。業を煮やした彼は、代理店を通さず直接、製作会社にアタックすることにして、シカゴのセリグ・ポリスコープ・カンバニーの社長ウィリアム・N・セリグ大佐に、『類猿人ターザン』ともう1本、まだ未発表の原稿を送りつけた。
 セリグ犬佐というのは、当時発明王のトマス・エジソンと並んで、映画産業の真のパイオニアといわれた人である。いっしょに送った未発表作品とは、 The Lad and the Lion 『砂漠のプリンス』で、中世ヨーロッパの若い王子が陰謀により飼っていたライオンと共にアフリカに追放されるという筋書の冒険ロマンス。3年後に初めて週刊小説誌に発表されたものだ。
 しかし、ここで再びバロウズの思惑ははずれた。セリグ大佐は『類猿人ターザン』を敬遠し、お添えもののつもりだった『砂漠のプリンス』の映画化権を、1915 年1月に500ドルで買いとってくれた。バロウズはさらに1、2の作品をセリグに送り、またユニヴァーサル・フィルムズやアメリカン・フィルム・カンパニーなどという会社へもあたってみたが、ぜんぶ断わられてしまった。後者などは「『類猿人ターザン』は小説としてはおもしろいが、映画にはとても向かない」という、素っ気ない返事をよこす始末だった。
 それでもバロウズは、ターザン映画を諦めなかった。1916年6月、彼はシカゴのウィリアム・パーソンズという男と、『類猿人ターザン』の映画化権を許可する契約をとりかわした。この男は元生命保険の勧誘員で、それまで映画製作の経験など皆無だったが、この分野で一旗あげる野心をもち、その製作第一弾としてターザンに目をつけたのだ。
 契約の内容も、シロウト商法らしくひどく風変りで、だいたいこんな案件であった――パーソンズの新会社ナショナル・フィルム・コーポレーション・オヴ・アメリカは、バロウズに前渡し金として5,000ドル支払う。ただしその支払いは60日後とする。さらにバロウズは新会社の株50,000ドル分を受け取り、重役陣にくわわる。また興収が製作費を上回った場合、その分の5パーセントを報酬としてもらう。製作日数は1年4力月以内、市場公開は2年4力月以内とする。
 だが、どんな変った契約だろうと、パロウズはすっかり満足し、前渡し金支払期限をみずから120日に延期してやるほどだった。ところが、ここでまたまた『類猿人ターザン』の映画は難産の憂き目を見ることになる。パーソンズの新会社は、設立資金の調達が思うにまかせず、せっかくとりきめた契約が反古同然になってしまったのだ。
 120日を週ぎた十月になっても、50,000ドル分の株券はおろか、前渡し金さえわずか2,000ドルしか、バロウズには支払われなかった。延滞金代りとして、名ばかりの新会社社長の肩書きを一時的に押しつけられさえした。
 それでもどうやら、その月の末にはやっと新会社設立の運びとなり、ようやくここに映画『類猿人ターザン』の製作の見通しがついたのである。
 明けて1917年、4月と共に、バロウズにも春がめぐってきた。セリグ・プロが人気女優ヴィヴィアン・リードの主演で撮っていた『砂漠のプリンス』が完成し、この月に一般公開されて、かなりの好評を博したからである。
 だが、バロウズの胸の内は相当に複雑だったらしい。念願の『類猿人ターザン』映画化がやっと決ったうれしさの反面、支払いをめぐるいざこざが、製作者のパーソンズとのあいだに深い溝を作ってしまった。また、『砂漠のプリンス』でもそうだったが、映画『類猿人ターザン』の内容について、原作者でもあり新会社の重役でもあるバロウズ自身の意見が、まったくとりあげてもらえなかったことも、不満の原因だった。
 撮影はおもにルイジアナ州でおこなわれ、動物の生態やジャングル・シーンはブラジルで撮ったものが使われた。はじめターザンにはニューヨークの舞台俳優ウィンスリー・ウィルスンが扮するはずだったが、パーソンズが撮影が始まる前に資金を使い果たし、金策にかけずりまわっているあいだに、折からヨーロッパで風雲急を告げていた第一次大戦に徴兵されてしまい、急きょエルモ・リンカーンに代えられた。
 ターザンの少年時代を演じた子役のゴードン・グリフィスは、当時を回顧してフェントンに語っている。
「エルモは見るからに役にぴったりな、強い男だった。ひどく毛深いたちで、観客が類人猿と見まちがえないように、日に二度は毛を剃らなけりゃならないほどだった。当時は動物など便わず、ニューオルリーンズの体育クラブから若くて頑丈な連中を雇って、類人猿のぬいぐるみを着せ、枝から枝へ飛びまわらせたものだ。私はカラというメス猿に可愛がられる役だったが、監督は本物だと危険だというので、やはりぬいぐるみの男に、その継母をやらせたよ」
 ストーリーはほぽ原作通りだが、ターザンがダルノー中尉の代りに両親の旧友だったビンスという英国船員から、フランス語でなく英語を最初に学ぶあたりと、最後にジェーンと結ばれるところが、違っていた。
 このように、映画が完成するまでには、さまざまの難関があったが、それをどうにか乗り越えたとき、行手には上々の首尾が待っていた。腕ききの宣伝マンが、タキシードとトップハットで正装させたチンパンジーを、一流ホテルのロビーに登場させるという奇抜なアイデアを演出し、新間に大きく報道されたのが効いて、1918年1月27日、ブロードウェー・シアターで封切られた映画『類猿人ターザン』は、空前の大当りをとった。
 ニューヨーク・タイムズ、シカゴ・ジャーナル、モーション・ピクチャー・マガジン、そのほかの新間や雑誌の映画批評欄の反応も上々で、興収は当時の金でかるく100万ドルを突破、この数字を越えた最初の6作品のうちの一つに数えられることになる。そして主演のエルモ・リンカーンはこの1作で大スターの地位を築き、ここに世界映画史上最大にして永遠の冒険王者が、誕生したのである。


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