ハヤカワ文庫特別版SF「ターザンと女戦士」解説より
Feb.1979
よく言われることだが、おもしろい物語は長ければ長いほどいい。いつまでも読みつづけていたい作品というのはあるものだ。子どものころのぽくを夢中にさせた活字の作品の主人公の多くは、1冊かぎりに登場するということはまずなく、たいてい数冊以上のシリーズ作品をもって活躍していた。1作ずつは完結した物語であっても、それきりで主人公が退場してしまうことを、読者がゆるさなかったのにちがいない。あるいは点数多く読んだ作品の主人公の名が、より強くぽくの印象にのこっているという側面もあるのかもしれない。モウグリ、ドリトル先生、カッレ・ブルムクヴィスト、あるいは鞍馬天狗、檀一雄の猿飛佐助、少年探偵団の明智小五郎、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、そしてもちろんターザン。思いつくままに書きならベているだけで、なつかしさにいっばいになってしまうそんなヒーローたちのなかで、日本の出版界ではターザンはこれまでやや不遇だった。ほかの主人公たちは、その登場する作品を全部読もうと思えば、読むことができた
。当時から各社の文庫にはいっているものもあり、また遅かれ早かれ、シリーズないし全集のかたちにまとまって出版されたのだ。
それにひきかえ、昭和30年を越えた当時、日本語で読めるターザンは、2、3の出版社から出ている4、5冊しかなかったという記憶がある。いずれも抄訳で、今にして思うと、バロウズ原作そのままの翻訳ばかりではなく、映画作品からの小説化といったものもまじっていたような気もする。子どもながらにさがしもとめて、大分たったころ、西条八十訳、小山書店版の〈全訳〉と称するシリーズを見つけたときには狂喜したものだ。だが、その小山書店版も冒頭の2冊で挫析、こんなおもしろい本を訳さずにほうっておくなんて、目のある大人はいないのかと思ったりしたものだった。以後、知るかぎりでは、昭和46年にハヤカワ文庫版が発刊されるまで、ターザンのきちんとした翻訳は試みられていない。原作があるのはわかっているのに読むことができない、という欲求不満もあって、ぽくはターザン・シリーズに関して、余分に愛着をいだいたのだろう。高校にはいったころか、バランタイン・ブックスと工ース・ブックスとで一挙に刊行されたターザンの英語ペーバーバックを読めもしないのに買いあつめたりした。そんな個人的なノスタルジイをこめて、ぽくは、今目の前にならぶ、黄色の
背表紙のハヤカワ文庫版ターザン・ブックスを読んでいる。
作者パロウズの名前が、SF前史的な意味をもつことをはっきり知ったのは、かなりのちになってからのことだった。調べてみると、火星、地底世界、金星等各シリーズの作品は、後期一部、〈アメージング・ストーリイズ〉や〈ファンタスティック・アドヴェンチャーズ〉などのSF雑誌に発表されている。ターザン・シリーズに関してはそういった事実はないようだが、にもかかわらずたとえば、レイ・ブラッドペリが〈わたしはグレイストーク卿のことばを引用しながら床についた。/チータのように鳴き、ヌマのようにうなり、タントルのようにほえながら眠った〉などと10歳のころを回想して書いたのを読むとき、ぽくのささやかな経験がそれにオーバーラップするような気がし、また、火星シリーズ以下の作品だけでなく、ターザン・シリーズまでが、SF前史のどこかひとすみにやはり確固たる位置を占めているのだという感じがするのである。
さて、地底世界シリーズのほうの装丁で出た『地底世界のターザン』をふくめると、ぽくたちは今、ターザン・シリーズのうち18冊を日本語で読むことができ、シリーズ全体をあるていど概観できるような状況になってきている。作品は、いずれもジャングルを舞台とするという基調はかわらないけれど、シリーズ後半にはいると〈秘境もの〉といわれる色彩を帯びてくるようになるとされている。そのあたりまで、ぽくたちの目にはっきりとわかるようになった。〈秘境もの〉に転してきた理由として考えられるのは、ひとつにはバロウズのほかのいわゆるSF的作品とくらべて、ターザンの舞台であるアフリカが、現実世界と地つづきだったということが言えるだろう。暗黒大陸であったアフリカのジャングルにも、現実の波はつぎつぎとおしよせる。イギリスをはしめ、ドイツ、ペルギー、フランス、あるいはロシア人のスパイ、エチオピア軍、アラブ人等々が入りみだれてあらそううち、ついに『野獣王ターザン』では第一次世界大戦がはじまってしまい、ジャングルを舞台に英独の戦争が繰りひろげられる。〈未知の大地〉を舞台とする冒
険ファンタジイとして出発したターザンの物語が、現実の事件に左右されるのを見るのは、読者にとっては耐えがたいことだ。作者パロウズはそこで、もう一歩ジャソグルの奥地へと踏みこみ、深い密林によって現実世界と隔絶された秘境を、ターザンの活躍する舞台として新たにえらんだのだった。シリーズに登場する秘境としては、それまでにも何度か断片的に出てくる、ラーの支配するオパルがあったが、それをぺつにすれば、まずシリーズ第7、8巻を占める二部作の前篇『野獣王夕−ザン』で、狂人の国ズージャンがやや浅い描写でえがかれたのが最初。それにつづき、有尾人の国パル・ウル・ドンでターザンの活躍する『恐怖王ターザン』以降、舞台はほぽ全面的に秘境にうつることになる。
こうした概観を得たうえで、シリーズ全体を見なおしてみると、もうひとつ、ストーリイ展開にやや錯綜するところがみられると評されていた前期の諸作品にくらべて、〈秘境もの〉の時代の作品がそれぞれ、すっきりとまとまった出来栄えをしめしていることに気づく。たとえば、ゴッタ煮のようだと言われた前期諸作の特徴のひとつに、ターザンの恋人から妻になるジェーンの誘拐がある。シリーズ初期、『類人猿ターザン』から『ターザンと黄金の獅子』までの、既訳8巻のうち、じつに7巻で、ジェーンはそれぞれ何者かによって誘拐されているのである。のこる1冊『ターザンの密林物語』はターザン幼年期の物語でジェーンはそもそも登場しない巻だから、事実上初期の全巻でジェーンの誘拐事件が起こっていることになる。ジェーンが誘扮されるというのは、主人公にとっても読者にとっても、たしかに大事件ではあるが、こうたてつづけにおこなわれてしまうと、読者もやや食傷気味になってしまう。たとえ彼女を誘拐するのが、類人猿、ロシア人スパイのロコフ、アラブ人の盗賊、ドイツ軍、西海岸の土人
などと目先がかわっても、である。誘拐が巻の途中でおこなわれる場合には、ストーリイを構成するいくつものエピソードのうちのひとつという扱いになってしまう。また、作品冒頭で誘拐がおこなわれた場合には、そのあと誘拐とはあまり関係ない事件が頻発、ターザンは心ならずもそちらの処理に追われ、巻末にいたってはじめて、思いだしたように誘拐事件の結着をつけるのである。
そんな事実に端的にあらわれているように、前期諸作は、多少の前後はあるものの、基本的にいくつもの事件の羅列といったかたちで構成されていた。ゴッタ煮といわれるゆえんだろう。これに対して、〈秘境もの〉のほうは、各巻ごとがそれぞれの枠組みをもち、一作ずつ完結した物語になっている。〈秘境もの〉というかたちをとっただけで、すでにそうならないわけにはいかないのである。原則として他の巻とは重複しない小さな異世界が舞台となるわけだが、作品冒頭でターザンはそこに到着し、作品が終わるときには、帰郷というかたちでその土地を去る。到着したときに巻きこまれるその小世界の事件が物語の主部を占め、そしてそれは彼の退去までに完全に決着がつき、つまり大団円をむかえるのだ。『恐怖王ターザン』以降のシリーズ作品は、そのようにある意味で美しいとも言えるような構成をもっている。
そしてもちろん、〈秘境もの〉の各作品に登場する、各異世界の奇妙な住民たちの存在もわすれられない。ピテカントロプスと思われる有尾人、ゴマンガニ(黒人)を支配する巨大ゴリラ族、小鹿にまたがって戦闘をおこなう小人族等々、ファンタスティックな、あるばあいにはSF味すら帯びる住民が、客異世界に生息しているのである。
以上〈秘境もの〉が執筆されている時期にも、いくつか例外作品はある。たとえば、ターザンの遠縁にあたるふたりの少年が、彼の農園をたずねてくる『ターザンの双生児』、革命グループがアフリカの夜明けをもとめてやってくる『無敵王ターザン』、ジャングル映画を撮影しようとハリウッドから撮影隊が乗りこんでくる『ターザンとライオン・マン』などがそれである。いずれも、以前のジャングルものの舞台に現実世界の側がおしよせてくるのを逆手にとって成立している作晶である。『ターザンの双生児』は子どもむけに書かれたもので、それなりに面白く、『ターザンとライオン・マン』は楽屋落ち的なおかしさで買えるが、『無敵王ターザン』は、現実世界の進展に裏切られてしまったといった趣があり今の時点から見ると成功作とはとてもいえなくなってしまっている。ともあれ、作品の構成面から言えば、それぞれ一作ごとの内容の統一性はたもたれている。ターザンが異世界にでかけていくかわりに、ここでは外来者の到着――退去というパターンがあって、〈秘境もの〉をちょうど裏返したかたちにな
っているのである。
本書『ターザンと女戦士』も、以上のべた〈秘境もの〉の正統をおおむねひいていると言えるだろう。ただ、ダイヤモンドを神聖視するズリ族とエメラルドのカジ族が対立する小世界と、ライオン騎士の国カスネ対象騎士の国アスネが対抗する小世界とのふたつの異郷が、作品前半と後半に存在するのがやや異例である。作品が1936年の秋と、37年の末の2回に分けてぺつの雑誌に発表されているのがその理由だろう。二部作の正統篇が一冊にまとまっているようにも思える。
さきほど書くことができなかったが、ひとつの異世界のなかでふたつのグループが対立関係をもって存在しているのは、〈秘境もの〉に何度もでてくるパターンだった。カスネ対アスネの対立の図式が回復されたところで、この作品は終わる。物語のなかで事件が解決され大団円にむかうとき、主人公ターザンが主導権をにぎって、彼の体現する西欧文明的な評価基準でその世界を〈文明化〉してしまう終わりかたと、その世界自体がもつ論理体系にのっとった正義がおこなわれて結末となるかたちのふたつのパターンが、ターザン・シリーズにはあるが、本篇は後者だった。対立の図式にもどってハッピーエンドというのは、このシリーズにおける作者の円熟をしめしているようにぽくには思えるが、どんなものだろう。
いずれにせよ、これで19冊。いささかスピードに欠けるのがものたりないが、着実にあと数冊というところまでぎている。ひとりのターザン・ファンとして、ハヤカワ文庫特別版のターザン・シリーズ(TARZAN
BOOKS)が、無事に完結する日の遠くないことを祈る。
その日の、なんと遠いことか。