ERB評論集 Criticsisms for ERB


厚木淳「バローズとルポフ」

創元推理文庫南海の秘境解説より

Jul.1980


 ――わたしは、エドガー・ライス・バローズの作品なら、「 火星シリーズ 」「 金星シリーズ 」「 ペルシダー・シリーズ 」「 ターザン・シリーズ 」はもとより、その他のSF、ウェスタン、歴史小説など、すべての作品を一冊残らず読んでいる。異国的な雰囲気とロマンスを待った純粋の冒険小説として、「 マッカー・シリーズ 」は、ERBの全作品のトップであろう。ビリー自身は、偉大なERBが創造した偉大なヒーローたち、すなわち、ターザン、ジョン・カーター、カースン・ネーピア、ディヴイッド・イネスと席を並べる資格を充分に備えている――。
 これは、SF作家リチャード・ルポフが、カナベラル・プレス版の「マッカー」(1963年)のカバーに記した讃辞である。手放しのほめ言葉としては、例えば一、二を争う傑作とか代表作といった形容があるが、ルポフはこの場合、全作品中のトップ( tops them all !)という、すこぶる断定的ないい方をしているのである。当時、ルポフはカナベラル・プレスの編集長をしていたから当然ではないかという見方もでてくるが、さすがにルポフは無条件にERBの太鼓持ちをしていたわけではない。バローズが書いたリアリズム志向の普通小説などは、いっぽうで手きびしく酷評しているのだ。ルポフがこの調子で絶讃した作品としては、「マッカー・シリーズ」以外には、「 ムーン・シリーズ 」が記憶に残っているが、それではなぜ、ルポフほどの作家が、これほど絶讃するのだろう?
 一つには、ともすれば「ターザン」や「火星」といった有名なシリーズ物の陰に隠れがちな作品であるから、特に声を大にして推賞したとも考えられる。しかし、その真意は――日本の読者にとっては盲点に等しいが――アメリカ人好みの主題を集大成した作品という点にあるらしい。
「マッカー・シリーズ」の第一部は1913年の晩夏に執筆され、翌年、オール・ストーリー・キャバリア・ウィークリー誌に連載された。2年後の1916年に続編の「 風雲のメキシコ 」が執筆され、オール・ストーリー・ウィークリー誌に発表された。ERBの初期の作品は、いずれもオール・ストーリー、アーゴシー・オール・ストーリー、オール・ストーリー・キャヴァリア等の雑誌に発表されているが、これらはすべてマンセー・カンパニーという出版社から発行されていたパルプ・マガジンである。同じ出版社が、つぎつぎに似たような性質の冒険小説雑誌をめまぐるしく創刊し、そして廃刊するという経過をくり返していたわけで、当時のアメリカの雑誌戦国時代の一端を示す現象である。
 ところで、こうしたパルプ・マガジンが掲載していたのは、どんな小説かというと、広義の冒険小説が大半で、それを大ざっばに分類すると、悪漢小説、拳闘小説、海賊物語、SF、ミステリ、怪奇小説、法廷ドラマ、脱獄小説、西部小説、ヒッピー小説といったところである。「マッカー・シリーズ」の驚くべき特徴は、一、二部を通して、実はこうした当時のパルプ・マガジンの主題と要素のすべてを包含しているところにある。リチャード・ルポフが絶讃の言葉を措しまないのも、こうしたアメリカ人好みの主題のすべてを一作品に盛り込むという離れ業をバローズが演じてみごとに成功したことと、バローズ以外の作家がその後誰一人、この同じ試みをしていない、という事実に注目したからにほかならない。
 本シリーズのこうした特色は第二部「風雲のメキシコ」に至って、さらに顕著になる。ルポフは第一部、すなわち本書のほうがよりすぐれていると述べているが、その点、訳者は少々見解を異にする。日本の読者の場合はメキシコを舞台にした第二部のほうがさらにおもしろいのではないかと思えるが、いずれにしても最終的な判断は読者におまかせしよう。
 バローズは冒険小説の定石を打破するために、一作ごとに趣向をこらしている。「マッカー」の第一部に、〈失われた種族(ロスト・レース)〉というSFの基本テーマを据えたのは、その現われだが、もう一つ、無視できないのは、主人公ビリー・バーンの特異な性格(キャラクター)を創造したことである。マッカーというのは、ごろつき、よた者、極道を意味する当時のスラングで、現在のアメリカでは、ほとんど使われていないが、本編に登場するマッカーは、女をなぐることが、男性的な勇気のあらわれだと心得ている、品性下劣、教養のない根っからの悪党である。彼の言葉遣いがいかにすさまじいものか、その見本をお自にかけよう。八章冒頭のマッカーのせりふは、こうである。

I am wise to wot youse an' dat guy was chinnin' about.

 wot を what、youse を you、an' dat を and that 、chinnin' を talking に直すと、やっとふつうの英語になる。

I am wise to what you and that guy was talking about.

 ジョン・カーター、ターザン以来、バローズの主人公は、いずれも騎士道精神に富む、男らしい正義漢ばかりだったが、本書で作者はこれとは正反対の、唾棄すべきならず者を創造して、読者の意表を突いたのである。
 そのマッカー、ビリー・バーンの相手が、350年前、室町幕府崩壊のさいに日本を脱出した有力大名の末裔となると、日本の読者にはひとしお興味深いが、作者が何に触発されて日本のサムライを登場させることにしたのかは、つまびらかにしない。しがし、高皇産霊神に始まって、大名、侍、足利、石、将軍、西洋人などをローマ字表記しているところから見て、何か日本史の書物を読んだことはまちがいないだろう。十五代将軍、足利義昭が信長によって追放され、細々と命脈を保ってきた室町幕府が名実ともに消滅したのは天正元年の1573年だから、350 年前云々というバローズの年代表記は、執筆の時点から見て正確なのである。ただし、室町幕府の有力大名の名前が、当の陰謀将軍を追放した信長の織田姓であるところはご愛橋というべぎか。
 さて、長年バローズに傾倒し、私淑してきたルポフは「マッカー・シリーズ」から六十数年後に、同じく日本の古代神話と侍に取材した作品「神の剣悪魔の剣」(本文庫既刊)を発表している。片やSF冒険小説、片やSFファンタジーと、傾向は異にするが、日本のサムライという特殊なテーマを、共にこの両者がとりあげたことには、単なる偶然の暗合とはいいきれないものを感じる。ルポフの作品は七八年度のネピュラ賞の候補作に推されただけあって、日本学に関する研鑽は、日本人顔負けの密度の濃いもので、鐙、兜、日本刀、槍、鍔の説明をはじめ、一寸法師、竜宮城、それに八岐大蛇まで登場させている。
 その創作の内幕話は、〈日本版への序〉の中で詳細に述べられており、ルポフの説明によると、英米のSFは、これまであまりにも不当に東洋的主題を看過してきたので、自分としては意識的に日本文化に取材したのだと述べている。確かにそのとおりではあろうが、ルポフのその意識的な思考のさらに内奥には、若かりし日に読んだ「マッカー・シリーズ」中の、白刃をきらめかしてビリー・バーンに斬りかかる日本の戦士、サムライの鮮烈なイメージが、ひそんではいなかっただろうか?

注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。


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