ERB評論集 Criticsisms for ERB


厚木淳「全作品中のベスト」

創元推理文庫月からの侵略解説より

Oct.1978


 バローズの「月シリーズ」三部作は、ジュリアン一族とオル=ティス一族の400年にわたる相剋という共通のプロットがあるものの、そのスタイルにおいてはいちじるしい相違が見られる。その理由を説明することは、とりもなおさずこの三部作成立の由来を語ることになるので、まず、そこから話を進めたい。
 この三部作のうちで、バローズが最初に脱稿したのは第2部の「月からの侵略」 The Moon Men で、1919年のことであった。シリーズ物としてではなく、これ一作で独立した作品として書きおろしたのである。ところがこの作品はなんと11の出版社から刊行を拒絶され、その後6年間も陽の目を見ることができなかった。執筆当時の世界情勢がこうしたいきさつに大きく影響していることは明らかであろう。1919年といえば第一次大戦の未期であり、その動乱に乗じたレーニンによるロシア革命の成功が全世界を震憾した時期に当たる。バローズはこうした世界情勢(レーニン、トロツキーは、このプロレタリア革命を全世界に推進すると呼号していた)を座視することができず、「月からの侵略」の執筆によって、非武装中立の危険性と共産主義の脅威に対する警鐘を乱打したのである。(第一次大戦の戦禍に懲りた列強のあいだでは、国際連盟を軸とした大幅な軍縮が最大の議題になっていた)当時の編集者たちは、このかなり露骨な反共未来小説にいささか辞易したのであろうか?
 「月からの侵略」の出来栄えに自信を持っていたバローズは、そこで計画を変え、その前と後に趣向の異なる作品を1編ずつ追加して全三部作としての構想を新たに立案した。こうして1923年にアーゴシー・オール・ストーリー・ウイークリーにまず第1部が連載され、1925年に第2部、第3部が同誌に連載されて無事に「月シリーズ」は完結した。
 第1部が宇宙活劇(スペース・オペラ)、第2部が未来社会小説(ソーシャル・サイエンス・フィクション)、第3部が西部活劇(ホース・オペラ)という具合に、本シリーズが三者三様のスタイルを持った背景には、右のような執筆事情が背景にあったのだ。作者が導入部として置いた第1部「月のプリンセス」ではカルカール人の勃興と、レイスにおける封建貴族制(ロマノフ王朝?)の崩壊が描かれている。第二部は月世界を制覇したカルカール人による革命の輪出、すなわち地球の侵略と支配が主題となる。ここでも共産主義者を見る作者の目は手厳しい。カルカール人とは、“自らを考える人だと考えている輩”であり、“ロばかり達者なくせになまけ者”であり、おまけに“非情冷酷な獣”にされてしまっている。“兄弟”は“同志”であり、“24人衆”は“ボルシェヴィキ”といったところか。バローズに見られる徹底的な反共思想は多くのアメリカ人に共通するもので、左の共産主義も右のファッシズムも、独裁制と全体主義を必至の前提とする限り、個人の自由と信仰の自由を抑圧する社会制度として我慢のならない存在であったのだ。右も左も蹴っとばせ、とい うわけであろう。本書以外でも、バローズは例えば「金星の独裁者」の中で、ヒトラーとナチズムを痛烈に愚弄しているし、「火星のプリンセス」に描かれた緑色人サーク族も、部族共同体制度を長年続けた結果、生まれた冷酷な種族として描かれている。
 第3部「レッド・ホーク」は完全な西部劇仕立てである。アメリカ人はインディアンの域にまで後退し、インディアンは奴隷の境遇にまで転落したところから物語は始まる。日本の読者が読んでも、もちろん充分におもしろい作品だが、これがアメリカの読者となると、まさに血湧き肉躍る興奮を禁じえないだろう。シカゴを起点としてカリフォルニアまで、広大なアメリカ大陸の2/3を延々と横断するジュリアン家代々の冒険を通して、僅々200年前の壮烈な独立戦争と、雄大な西部開拓史をまざまざと追体験できるからだ。そしてまさに作者バローズが描こうとしたのも、そうした不屈のヤンキー魂とフロンティア・スピリットであったのだろう。バローズが西部小説の名手であることは、あいにく日本の読者には知られていないが(特に 『ウォー・チーフ』"War Chief" と 『アパッチ・デビル』"Apache Devil" は彼を代表する傑作である)、彼のその面における非凡な筆力は、本書第三部によっても、その一端はうかがえるはずである。
 アメリカの批評家たちが、三部作の中でも特に第2部を高く評価していることは1巻の「あとがき」でも述ベたが、その理由としては、第2部「月からの侵略」が、テクノロジーの進歩(この場合は退歩だが)と社会文化の変質に正面からとり組んだ社会派SFの先駆的作品であるということを指摘すれば充分だろう。バローズは、アシモフやコンブルースやW・キャンベル・ジュニアなどが提唱した Social Science Fiction へのアプローチを20年も前に試みているわけで、彼のSFへの貢献は決してスペース・オペラにのみ留まらないことを知るべきである。全三部作をソナタ形式にたとえれば、第1楽章アレグロのあとを受けた第2楽章は、いささか暗く沈痛なアダージオで、結末もハピー・エンドではない。しかし、第3楽章では一転してアレグレットになる。その軽快な調べは、まさに名馬レッド・ライトニングの駿足を示すものであろう。そして大団円はロミオとジュリエット・テーマのヴァリエーション。しかし今度こそは、まぎれもないハピー・エンドである。

 「月シリーズ」三部作のテキストには2種類の異版がある。雑誌連載が終わったあと、1926年に単行本化された時、2部と3部は全体の約5分の1がカットされてしまった。戦後のカナベラル・ブレス版は、これの復刻である。おそらく、三部作を1巻にするための圧縮作業であったのだろうが、お世辞にも上手とはいえない刈り込みで、例えば、サミュエルズ老人(日本の読者は看過しがちだが、作者がここでとりあげているのはユダヤ人問題である)が虐穀される場面や、ジュリアンと弟のレイン・クラウドが星や地球について問答をかわす場面など、特に重要な場面に大幅なカットが見られて興をそぐことはなはだしい。幸い、エース・ブック版が、2部と3部を The Moon Men というタイトルのもとに、雑誌連載の原稿をそのまま完全に収録しているので、2部、3部の訳出にあたってはエース・ブック版を使用したことをお断りしておく。ふつうは、ペイパーバックよりもハードカバーのほうがテキストの信頼性が高いものだが、この場合に限っては逆なのである。

注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。


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