ERB評論集 Criticsisms for ERB


厚木淳「金星シリーズの開幕」

創元推理文庫金星の海賊解説より

Jun.1967


 エドガー・ライス・バローズは「 火星のプリンセス 」をもって華々しく登場してから、以後「 ターザン・シリーズ 」、地底世界を舞台にした「 ペルシダー・シリーズ 」を発表して、全米一の人気作家として旺盛な執筆活動をつづけていたが、処女作から20年後の1932年には、いよいよ彼の最後のシリーズ物となった「 金星シリーズ 」に着手した。当時「 火星シリーズ 」は6巻まで、「ペルシダー」は4巻まで発表されており、このときから1941 年に執筆から離れるまで、バローズは、「ターザン」と「火星」「ペルシダー」「金星」のSF三大シリーズを平行して書き進めることになる。
 本書「金星の海賊」が発表された1932年はSFの流行期で、特に人気作家の筆頭にあったバローズの華麗な作風が、多くの作家に影響をあたえ、模倣者を生んだことは想像に難くない。たとえぱラルフ・M・ファーリーの「ラジオ・マン」シリーズなどはその一例で、主人公のマイルズ・キャボットには「火星シリーズ」の強い影響をみることができる。ところでこうしたSF界の風潮に反発を感じたことが、バローズに「金星シリーズ」を書かせる直接の動機になったのだという説がある。
 そもそも金星は大陽系のなかでは、火星と並んで生物生存の可能性がもっとも強い惑星とされている。そこで、バローズの「火星シリーズ」につづいて金星を舞台にしたSFが世に出たのは、しごく当然の成行きといえよう。オーティス・A・クラインが「火星シリーズ」を換骨奪胎して、金星を舞台にした「ペリル・シリーズ」の第1作を「アーゴシー」誌に発表したのが1929年。翌年、同誌に第2作が発表され、ひきつづいてクラインは1931年に贋作ターザン物を2作発表している。すなわち「虎の息子タム」を「ウィアード・テールズ」誌に、そして「ジャングルのヤン」を「アーゴシー」誌にである。そこであまり鉄面皮な模倣の連続に腹をすえかねたバローズは、みずから「金星の海賊(パイレーツ)」を書きおろして「アーゴシー」誌に送った。むろん同誌では喜んで掲載したため、クラインはやむをえず彼の第3作「金星の海賊(バカーニアズ)」を一級下の「ウィアード・テールズ」誌に載せることになった。しかし、バローズの挑戦を受けて、こんど頭にきたのはクラインのほうだ。もともと金星はおれが開拓した領分だ。そこへバローズが侵略してくるのなら、こちらも相手の本拠、火星 へまき返してやろうとばかり、翌1933年「アーゴシー」誌へ「火星の剣士」を発表した。バローズとクラインの不和反目から生まれる競作に喜んだのは、いわずとしれた読者と編集者……赤勝て、白勝て、もっとやれ、フレー、フレー、というぐあいだったという。
 バローズの「金星シリーズ」成立の事情に関して、右のようなエピソードと解釈を披露しているのはSF評論家サム・モスコビッツ( Explorers of the Infinite,1960 )だが、この説は、当時のアメリカのSF戦国時代の一般的現象を、きわめて局部的に、しかも興味本位にとりあげている点で、首肯しかねる節がある。というのは、バローズの模倣者は当時、応接にいとまないほど各種のSF雑誌に登場しては、つぎつぎに消えていったわけで、こうした普遍的現象にたいして、バローズがいちいち目鯨を立てて憤慨したとは思えない。現に、バローズの研究家リチャード・A・リュポフなどもこのモスコビッツ説に反駁して、バローズもクラインもすでに故人になっているために家族の言や当時の書簡などでしか推測できないが、両者ともに競作意識をもって彼らの作品を執筆したとか、あるいは両者の不和反目を示す証拠、痕跡等は皆無であると主張している。
 わたしもこのリュポフ説に賛成である。クラインのような亜流が輩出したことは、バローズのように真の実力ある作家にとっては、なんら脅威にならぬばかりか、むしろ彼の名誉を裏づけることにほかならないからである。
 ここで金星シリーズの全貌をまとめてみると、つぎのようなリストになる。

  1. 金星の海賊
  2. 金星の死者の国
  3. 金星の独裁者
  4. 金星の火の女神
  5. 金星の魔法使

 数字はいずれも単行本初版の年度で、単行本の前年もしくは前々年に「アーゴシー」誌に発表されている。ただし、5はバローズの死後にまとめられたSF短編集で、この中にはカースン・ネーピアものが1編収録されているだけである。従って、金星シリーズは正式には全4巻ということになる。金星シリーズが4巻で終わったことは、第二次大戦の勃発によるもので、バローズは従軍記者として、いっさいの創作活動を中断してしまったのである。
 金星シリーズはスペース・オペラとしては完全に火星シリーズの延長線上にある作品であり、娯楽性においても、またヒーローの性格においても双生児のような作品といえるが、一つだけ、いちじるしい特徴のあることを指摘しておきたい。それは現代の攻治、社会制度にたいするバローズ流の諷刺と皮肉が、あまり潤色されずに出ている点である。第1巻においては金星コミュニストが、第2巻では、無駄のない完全な計画社会の是非、第3巻では金星ナチズムが正面きってとりあげられている。執筆年代と考え合わせると、ミュンヘン会談にいたるまでの大戦前の列強の動向が各作品に投影し、それがアングロサクソン流の本能的なアカぎらい、独裁制にたいする嫌悪感、そして個人の自由への先天的な執着によって色づけされているようである。わたしとしては「金星シリーズ」執筆の動機は、クラインとの競作意識などよりも、むしろこうした政治批判にあったと考えたい。特に第3巻におけるヒトラーへの痛烈な諷刺は、同年代のチャップリンの映画「独裁者」と合わせて考えると興味深いものがある。しかし、こんな分析はスペース・オペラの鑑賞においては蛇足にすぎない。ミュンヘン会談の何 たるかを知らぬ現代の読者が、しかつめらしい予備知識を抜きにして、作品そのものを楽しむことこそ、作者の本懐であろう。ジョン・カーターとデジャー・ソリスの図式どおり、快男子力ースン・ネーピアとドゥーアーレーの二人が全巻を通じて活躍し、金星ならではの怪物が陸続と登場して――たとえば鳥人につづいて後続の巻では魚人間とかアメーパ人間など――読者の手に汗を握らせることも「火星シリーズ」と同様である。

注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。


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