創元推理文庫『金星の魔法使』解説より
Sep.1970
1950年に没したとき、エドガー・ライス・バローズは史上まれにみるほど人気のある、想像力豊かな娯楽文学を遺産として遺したのであった。彼の ターザン物語 は、ひとつには(あるいは主として)それに基づいてつくられた数多くの映画のおかげで、赫々たる名声を博した。しかし彼に私淑する人々のあいだでは、バローズはSF作家としても少なくとも同程度に知られている。
彼の7編の 地底世界シリーズ や、4冊の 〈金星シリーズ〉 や、 〈火星シリーズ〉 や、 その他の科学冒険小説 ――〈月シリーズ〉 、 『時間に忘れられた国』 、 『モンスター13号』 などは科学伝奇作家(サイエンティフィック・ロマンサー)の名簿の上で、高い名誉ある地位をエドガー・ライス・バローズに保証したのである。
バローズは作家として職歴を開始したのではなかった。実のところ彼が売文業に着手したのは、やっと36歳のときで、それも、たいした成功もせずにほかの多くの職業に手を染めたあとであった。とはいえERBがさまざまな分野の仕事をしたことは必ずしも時間の無駄ではなかった。というのは彼は数多くの職業から得た知識を作品に編み込んだからである。たとえばバローズものでは比較的知名度が少ないが、それでも読みごたえのある2作
『ウォー・チーフ』 と 『アパッチ・デビル』 にはジェロニモと戦う軍人生活がでてくる。鉄道公安官としての経験は <マッカー・シリーズ> のなかで活用されている。
彼の職業作家としての経歴は、1912年に、火星シリーズの第1作、 『火星のプリンセス』 が<オール・ストーリー>誌に売れたときにはじまった。彼の生涯の最後にでた作品は、10番目の火星もの、 『火星の古代帝国』 であった。
作者の死後、多くの未発表原稿が作者の筐底に残されていたという噂が流れ、それらの原稿がもし実在するならば、やがて出版の運びとなるようにとの要望が表明された。しかしその噂を裏書きするようなものはほとんど現れず、歳月が過ぎるにつれて、その『原稿伝説』は多くのバローズ愛好家の見解によれば、ますます影の薄いものになってきたのである。
1963年、カナベラル・プレスとエドガー・ライス・バローズ有限会社とのあいだにバローズの多数の絶版作品の再版を刊行する、契約が成立した。この契約にいたる交渉をおこなうあいだに、作者の令息、ハーバート・バローズはERBの文書の大々的な棚卸しをおこない、あらゆる懐疑論にもかかわらず、例の『原稿伝説』がまったく伝説ではなかったことを発見した――つまり計画されながら執筆されずに終わった作品の断片や梗概はもとより数編の完全な小説まで、未発表原稿が、文字通り山積していることを発見したのである。
SFの分野では3編の未発表の短編小説があった。ひとつはすでにカナベラル社により、 『ペルシダーに還る』 の最終部分(第4部『野生のペルシダー』)として出版されている。第2の『タンゴール再登場』は、『さいはての星の彼方に』"Beyond
the farthest star"の第2部となった(『金星の魔法使』所載)。
『さい果ての星の彼方に』の第1部が1942年にさる冒険雑誌に現れたとき、それは明らかにひとつの科学空想冒険小説の連載の第1回に意図されたものであった……。あるいはバローズの火星や、金星や、ペルシダー・シリーズの系列にはいるまったく新しい小説のシリーズの発端となるつもりであったというほうが適当かもしれない。
バローズは空想上の惑星ポロダをまことに詳細に作り出した結果、主人公タンゴールをそこへ連れていく前に、この惑星の地理的、天文学的関係を決定し、ポロダ語やアルファベットを案出し、ポロダ人のための社会的、政治的、経済的な構造をそっくり作り上げておいたのであった。彼はポロダの地表を地図に書き、ポロダがある恒星オモスの太陽系全部を図に表したのだが、この太陽系は地球から45万光年へだたったNGC7006球状星団の遙かかなたにあるという。
そしてバローズは覚え書きのなかで、『4つの短編のうちのこれら3編』のことにふれている。
現在ポロダに関する短編小説はふたつしか存在しない。ほかのものはどうやら書かれずじまいになったらしい。しかし現存の資料の上でさえも、バローズが胸中に浮かべていたオモス星系におけるポロダ惑星は驚くほど完全で、すばらしく想像力に富んでいる。
たとえばポロダや、オモスのそれ以外の惑星は、われわれの太陽系にある地球やほかの惑星のように、一連のほぼ同心円上を運行するのではない。その代わりにオモスの惑星はどちらかといえばわれわれの星系で火星と木星のあいだの軌道を運行する多数の小惑星ふうに、ひとつの軌道を共有しているのである。
バローズはさる天文学者の友人の助けを得てこの巧妙な配置を仕上げたのだった。彼らはまた共同で、この配置の与えるユニークな視覚的影響と潮流の影響も考え出した。たとえばひとりの観察者が、ほかの惑星がいっぽうの地平線から蒼穹を横切って天頂へ達し、そしてまた反対側の地平線に沈むために下へと移動する見事な行列を見守っていれば、一夜のうちにその星系の全部の惑星の上昇と下降を見ることが可能なのである。
オモスの諸惑星は恒星に非常に近く――太陽から地球の距離がほぼ1億5000万キロメートルであるのに比してわずかに160万キロである。
この距離では、太陽の大きさの(つまりもっと適当な言い方をすればあれほどの質量の)恒星であれば、それは地球に対する太陽の引力の80万倍の影響力を持つことになり、そのためにその惑星上の生命の存在を阻むことになるだろうと計算された。
しかしオモスを太陽より徹底的に小さくし、密度は同じくらいでも直径を地球より20パーセントしか大きくないものにすれば、重力の効果は太陽のそれとほぼ同じになる。同じようにしてポロダからわずか8万キロメートル離れた地球並のサイズの惑星によって引き起こされる潮流の問題が生じてくる。幸いにもオモスの惑星をその共通の軌道の上に互いに等間隔をおくことにより、ポロダにもっとも近いふたつの惑星(トノスとアントス)は、ほとんど完全に相殺しあうような引力と潮への影響力を出すということになる。同様に、連続しているもっと遠くの惑星のふたつずつがおのおの、トノスとアントスほど正確ではなくても相殺しあって、やはりもっと弱い影響力を持つ結果、結局ポロダには特に潮流の問題はなくなるのである。
大気に関しては、バローズはオモスの諸惑星が共有するひとつのドーナツ型の大気圏を考案した。
この名案は強力な飛行機に乗って惑星間航行をすることを可能にし、現在この地球で開発中のような精密に作り上げられた宇宙船の必要はなくなるであろう。しかし不幸にしてこの場合、なにか宇宙の奇跡によってそのような配置が生ずると仮定しても、その配置は永続的ではないだろう。各惑星はその引力が保持できる限りの大気を捕らえ、残りは消散するだろう。ドーナツ型は存在し得ないのである。
バローズはドーナツ大気圏が気に入り、それを手放したくはなかった。とはいえ放棄した模様である(その証拠には『金星の魔法使』177ページを見られたい)。
ポロダの自然科学上の特徴から先へ進むと、『さい果ての星の彼方に』の中で表明されている作者の戦争に対する態度は、たとえば彼の火星シリーズの多くで表明されている戦争への態度と比較して注目すると、すこぶる印象的なものである。火星シリーズにおいて戦争はスリルのある冒険、つまり敵対する個人個人が剣で武装して、なにか卑劣な罪の矯正のために堂々と戦う、騎士的な対決とみなされている。
『さい果ての星の彼方に』ではバローズはそれより遙かにリアリスティックに、しかも遙かに絵空事を少なく戦争を描いている。ここでは戦争は1世紀にわたる天罰であり、息子たちの殺し手であり、苦悶の原因である。軍隊の破壊の直接の結果が示されているばかりでなく、野蛮な状態に、いや共食いにまで堕ちた、被征服国の惨めさが容赦のない生々しさで呈示されている。
バローズによるユニスの『沈下都市』の概念は、近年多くの作家たちによって『レベル7』や、『降下』や、『暗黒の宇宙』や、『ラブリスのサイン』のなかで使われている同様のテーマより20年も早いものであった。
バローズの原稿がこれ以上発見されるという見込みは、待望されてはいるがありそうもないことで、現状においては、計画されていた『さい果ての星の彼方に』の続編はついに書かれなかったものと推定するしかない。だがカナベラル・プレス(本文が掲載された『金星の魔法使』を含むバローズ作品のリバイバル出版をすすめていた出版社)は、ポロダにおけるタンゴールの冒険談のうち知られているもののすべてをここに紹介することを誇りとするものである。
ここに初めて本の形で出版される『五万年前の男』は(当初は、忘れられて久しい1930年代のパルプマガジンに載った)バローズにとっては異例のものである。この物語をのぞけば事実上バローズの作品の全部が長編か、あるいは中編小説の長さであった。『五万年前の男』は短い話で、実際、小品の域をでない。
とはいえ、本編は30年近く前に書かれたときと同様に今日も有効な、現在の社会的、政治的慣習に対する痛快な風刺となっている。
『五万年前の男』は本書の読者には小さな景品とみなされるかもしれない。それは確かにERBには異例の物語であり、彼のあまり知られていない作品に見られる、数多くのうれしい驚きのひとつである。
『金星の魔法使』と『野生のペルシダー』と『タンゴール再登場』とで、ERBの未発表の文書のなかに見出された3つのSF短編小説は全部である。この物語は金星、すなわちそこの住人たちのいうアムターにおけるカースン・ネーピアの冒険談の続編であり、バローズのこれより前の4つの金星物語の手法に従っている。『金星の魔法使』は、相互に関連のある短編の新しいシリーズの皮切りの部分にと意図されたものらしく、そのシリーズはやがてはカースンの冒険談の5番目の作品となるはずであったろう。ところが残りの物語は、バローズの太平洋地域での従軍記者活動のためにとうとう書かれなかったもので、この勤務は、もしそれがなければ今日存在したはずの多くの物語を彼が書くのを妨げたことになった。
しかし『金星の魔法使』はそれだけでもひとつの完結した冒険となっている。読者はその中で向こう見ずではあるが陽気な、地球からの冒険家、カースン・ネーピアに紹介――あるいは再紹介――される。カースンは文字通りの登場人物という意味だけでなく、人格表現上の個性という意味でもまさにひとつのキャラクターである。事件のほうで彼にふりかかってくる。われわれなら地味に平凡な日々を過ごすところを、カースンの場合は猛烈な冒険に出くわすのだ。彼ががむしゃらな行為を成し遂げようと着手するときでさえも、その行為は決して計画通りの結果には終わらない。
彼の金星への到来を例にとってみたまえ。カースンはNASAに惑星間探検をまかせることに満足せず、その代わりに莫大な財産を背景に自らの設計明細書にあわせた宇宙船の建造を注文した。彼はそれが完成するやいなや乗り込み、進路を定め、火星に向けて飛び立ったのである。
火星の代わりにどのようにして金星に到着したのであろうか? まあそれは、また別の話であり、 『金星の海賊』 のなかであますところなくバローズが記録していることである。だが、それがいかにもカースン・ネーピアらしいところだ。カースンさえもが『金星の魔法使』への彼自身の前書きのなかで、えてして悶着を起こしがちな自分の検索癖を批評している。
しかし大冒険家であろうと、また単なる無能力者であろうと、カースンはあらゆる空想文学のうちでもっともおもしろい苦境の幾つかへ、まんまとへまをやっては闖入していくのだ。
『金星の魔法使』で彼が直面する苦境は、なんとも飛びきりである!
1964年3月ニューヨーク市
1970年9月刊の『金星の魔法使』に訳載された。バローズ・リバイバルの立て役者であったカナベラル・プレス版の解説として書かれた文章(と思われる)だが、訳文がいかにも硬く、漢語の多い読みにくいものになっている。厚木氏ではない、他の編集部の人が訳したのではないか。ただ、現物主義の観点から、文章には基本的に手を入れなかった。ただし、翻訳出版された当時、未訳だった作品のタイトルは、刊行されたものに改めてある。